
キューバは1492年、コロンブスによって発見された。
という歴史の語り方をぼくはいまいましく思う。既にそこに暮らしていた人々からすれば、大厄であったはずだからだ。やがてスペインから遠征軍が送り込まれ、植民地化が始まった。度重なる虐待や強制労働、疫病などでインディオ(アラクワ、タイノ族)はほとんど絶滅した。
先住民を絶滅させ、労働力が足らなくなったからと、代わりにアフリカから送り込まれたのが黒人奴隷である。いまのキューバには祖先をスペインとする白人系、アフリカからの黒人系、両者の混血であるムラート系の人々が暮らす。ほかの中南米もなりたちは似たようなものだが、ここまでインディオ系が残らなかったのもキューバくらいのものではないか。どれだけ過酷だったかが窺い知れる。あんまりである。

キューバ人は基本的におしゃれ。スタイルもセンスもいい。貧しくてもそこは手を抜きません。
ハバナの街を歩いていて救いなのは、白人、黒人、ムラートのあいだで、まったく差別が感じられないことである。子どもたちもへだてなく遊び、大人たちもへだてなく恋愛する。3種混血し合い、はっきり区別できない人々も多く見られた。
皮膚の色で差別がなくなったのはそれほど昔のことではない。キューバ革命後、カストロ政権になってからのことであった。キューバ国際航空はホセ・マルティ空港と呼ばれるが、このホセ・マルティ氏こそがキューバ革命に掲げた理念である。

マルティ通りに立つホセ・マルティの像
人間を分けたり限定したり、切り離したり、囲いに入れたりすることは、すべて人類に対する罪である。孤立する白人は黒人を孤立させる。孤立する黒人は白人を孤立させるよう仕向ける。【獅子より高く正義をあげよ ホセ・マルティ思想と生涯】
スペインに支配され、お前たちは砂糖だけを生産していればいいのだと19世紀なかばには世界一の砂糖生産地となり、葉巻の生産地となった。同じサトウキビからラム酒が造られた。そこで暮らしていた人々のための土地でなく、そこを支配していた者たちのために。

機内から見下ろしたサトウキビ畑。キューバは緑におおわれた島です

やがてスペインに替わり、アメリカが支配しても似たようなものだった。貧しい者は貧しいまま抑えこまれ、また放置された。豊かな物資は入ってきたかもしれないが、それは一部のものだった。ホセ・マルティが理念を掲げたのはそのころだった。アメリカを信用してはならない、と警告した。カストロとゲバラによって理念は実行され、今のキューバとなった。

ハバナの街は驚くほど瀟洒な建物に満ちている。5mはありそうな天井とアーチ、コリントス式の円柱、そのどれもが砂糖や葉巻によって得られた財がいかに巨大だったかがうかがえる。同時にそのどれもが朽ち果て、壁はボロボロだ。中には天上が崩れ落ち、壁が剥がれ、通りから崩壊した部屋の様子がまる見えな建物もある。

崩れた壁の破片が道の端に寄せられ、ときおりつまずきそうになる。かつてこの国を支配していたものか、大きな財を成した者たちが暮らしていたが、革命を恐れて逃亡し、あるいは追放された。建物は代わって一般の民衆に開放されたが、貧しい人々は食べるのが精一杯で、建物の維持にお金をかけられる余裕などない。せいぜいクリームソーダ色やピンク色などトロピカルなペンキを塗ったくらいだ。だがペンキも意外と高くつく。途中で塗りやめ、別の色に変えてしまったり、アートペイントも施したり。結果的にそれがどこの国にも見られない、独特の街の風景となった。




そんな通りを、すこし高揚しながら歩く。
日中は35度を超え、湿度も90%。不快指数は高く、加えて排ガス規制など想像もできなかったころの50年以上昔の車の排気ガス。道端に放棄された食べものからあがる腐臭を、カリブから吹いてくる風が洗い、さらに肌を心地よく撫でていく。

通りに響く物売りの声、子どもたちのはしゃぐ声、クルマのクラクション、タクシー?と声をかけられ、 ニーハオとあいさつされる。キューバは初めてかい? どのくらい居るんだ? てきとうに応じると オテル? レストランテ?シガー? ヴエナビスタフェステバル?と、訊かれる。でもニッコリ笑い断れば、相手もニッコリ笑い、サヨナラと返す。うだる空気にねっとりとまとうスペイン語、バルコニーに干されたありえない色の下着たち・・

子どもとはいえ、そこは女の子。カメラを向ければちゃんとポーズを取ってきます
ふらっと来るには遠すぎるハバナの街が目の前に広がっている。愛おしくて、いくら歩きまわっても疲れを感じない。
夕暮れが街をピンクに染めていった
魔法のように。

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