成田から片道2時間のヨーロッパ

世界一、日本に近いヨーロッパ

極東ロシアの港街、ウラジオストクについて書く。

 

ウラジオストクでもっとも大きなロシア正教教会のひとつ、生神女カトリック教会【1921年建造】

 

成田を発てばわずか2時間半で行けるほどの距離にありながら、そこは典型的なヨーロッパの都市。ふつうヨーロッパへ行くには、10時間以上機内に閉じ込められ、着いても時差ボケに悩まされるものだ。直行便でなければ乗り換え時間を含め、着くまでに20時間近くかかることもある。ヨーロッパへ行きたいとは思うが遠すぎて・・とあきらめていた人にもおすすめなのが、ウラジオストクである。

 

がらがらだったオーロラ航空機内(アエロフロートとの共同運航便)

 

軍事都市として閉ざされた時代

ぼくの世代の日本人にとって、ウラジオストクはソ連時代の軍事都市のイメージが濃い。そこにはソ連太平洋艦隊のヘッドクオーターがあり、そこから出港する軍艦の砲が向くのは対岸の日本やアメリカであった。外国人はおろか自国民であっても自由に出入りできない要塞都市であり、そこでなにが起きているのか秘密のヴェールに閉ざされてもいた。帝政ロシア時代の明るく開かれた港街から一転、不気味な軍事秘密都市となったのはロシア革命後しばらく経った1937年。以来、ソ連が崩壊する1991年クリスマスまでで固く閉ざされ、1993年になってようやく外国人にも門戸が開かれた。

 

ウラジオストク駅のそばに立つレーニン像。他の都市がソ連崩壊直後につぎつぎと壊され、撤去されたレーニン像だが、ここウラジオストクにはまだ残されていた。

 

あてもなくウラジオストクの街を歩く。

どの角を曲がっても、広がるのは典型的なヨーロッパの街並みである。重厚で優雅な装飾のある石の建物。ゴツゴツとした石畳。クラッシックな街灯、電柱は地中に埋められ、街路樹の列を乱さない。すれ違う人々はほぼ白人である。同じロシアのモスクワより白人率が高いように思う。そしてヨーロッパ側のロシア人に比べやや細身で股下が長い。彼らはもの静かに話し、目鼻立ちのはっきりした美男・美女たちである。ウクライナからの移民が多いせいもあるのだろうか。

無骨なソ連時代の建物も残るが、大半は帝政ロシア時代の産物、ロシア・バロック様式である。位置的には極東で、周囲はアジア諸国、とうぜん多少はオリエンタルな風景も混じっているのでは?と思ったぼくは、ことごとく裏切られることになった。あえていえば、観光客の大半は中国人と韓国人、北朝鮮からと思われる労働者もちらほらいる。彼らの存在にここが極東であることを再認識させられるけれど、考えてみればパリやロンドンにだって中国人と韓国人で溢れているのだった。

 

帝政ロシア時代のロシアバロック建築のものが多く残されている

 

意外なほど日本との深いかかわりがあった

日本人を見かけることは少ない。
けれどもウラジオストクほど、近代史において日本と関わり合いの深い都市もないのではないか?
世界の地図にウラジオストクが意識され始めたのは、実はそれほど前のことではない。ロシア人による統治、街づくりが本格的に始まったのが1860年ごろ。折しも日露和親条約が結ばれた時期と重なる。まもなく日本からも入植者がウラジオストクでも現れ始めた。1866年には西本願寺初の海外分院が設立された。

ウラジオストクの都市建設に必要な資材はヨーロッパ側でかき集められ、2ヶ月もかけて海路で運ばれていた。それが1890年、シベリア鉄道が開通してからはわずか2週間まで短縮され、一気に街づくりのペースが上がった。はるばる極東に「そのまんまヨーロッパ」が再現できたのも、シベリア鉄道のおかげである。1902年にはここで暮らす日本人は3000人に迫った。日本の商社があり、さまざまな商店が軒を並べた。この頃流通していた商品の13%は日本からのものだったのだ。

20世紀初頭の世界は、とりわけ東アジアはきな臭いムードに満ちていた。日清戦争で朝鮮半島を中国から独立させ、経済圏と安全保障を確立しようとしていた日本は、ロシアから見ればじゃまな存在である。日本が清から割譲したばかりの大連などがある遼東半島を、なんだかんだとイチャモンをつけて取り上げ(三国干渉)、そのまま直轄領とし、軍事要塞(旅順)までこしらえて日本を牽制した。危ぶむ声もあったが、刺激したところで日本が自分たちに歯向かうこともないだろう。歯向かってくれば叩きのめせばいい。このときロシアの国力は日本の20倍も差があった。ロシア皇帝ニコライ二世は日本人のことを「マカーキ(猿)」と呼び、侮っていた。

 

 

日本は焦っていた。朝鮮半島まで進出しようと南下してくるロシア。シベリア鉄道の存在はいまや驚異でしかない。

平和時においては欧州航路の短縮という意味でありがたいが、いざ戦争となれば軍事インフラでもある。増強のための兵員や武器弾薬がヨーロッパから次々と運び込まれるからだ。

とはいえ日本にまだチャンスがないわけでもない。開通したとはいえ、シベリア鉄道は途中のバイカル湖で分断されていた。湖を迂回する路線はまだ完成しておらず、やむなくバイカル湖上を夏は船に乗り換え、冬は凍った湖を犬ぞり(!)を滑らせて兵員や物資を輸送せねばならない。ロシアを叩くならいまをおいて他にない。シベリア鉄道が完全に開通してからでは、日本に勝ち目はなくなってしまう。国家存亡の危機である。避けられない戦争なら、せめてやられる前にやるしかない。

1904年2月に日本がロシアに戦いを仕掛けたのはそのためだった。しかもバイカル湖が凍結し、輸送を船ではなく犬ぞりに頼る冬場であれば更に有利だった(バイカル湖の橋が完成したのは7ヶ月後の9月)。

日露戦争についてあまり語られないが、実はロシアは清と「露清密約」があり、どちらか一方が戦争になれば片方も参戦する手はずだった。つまり日本はロシアと清、両方を相手に戦わなければならなかったということになる。ここで効いたのが前年に取り交わしていた「日英同盟」である。清が参戦すれば、大英帝国(当時世界一の軍事力をもつ)が日本を助けて参戦する。清は「さすがに英国まで相手にできない」ということで、雪辱の日清戦争の仕返しを諦めざるを得なかった。

 

バイカル湖で分断されていた1904年はじめのシベリア鉄道

 

シベリア鉄道如何では日本は敗けていたかもしれない。それほどまでにロシアの物量は脅威であった。
ようやく辛勝した日本が、まっさきに満州や朝鮮半島に鉄道インフラを敷設していったのは、それが生命線になることを熟知していたからでもある。

 

開通したばかりのシベリア鉄道で走っていた蒸気機関車(ウラジオストク駅ホームにて展示)

 

日本との戦争が終わると、ウラジオストクは自由都市として発展していった。戦前は10万人足らずの人口は次第に増え続け、ロシア革命直前までには40万人を数えるようになる。なにしろロシアは広い。1917年にロシア革命でソビエト連邦が誕生してからも、革命の戦禍を逃れ、しばらく極東ロシアは帝政ロシアの拠点が置かれていた。そうして外国の軍隊の駐留を許し、共に革命ソ連軍を打倒させようとした。それゆえ日本も依頼を受けシベリアに出兵した。ウラジオストクはこれの兵站でもあり、在留邦人は実に6000人に増えていた。シベリアに出兵する日本兵に対しても商売しようと日本人経営の商店が林立し、ミネラルウォーター工場やしょうゆ工場、鉄道や自動車の修理工場もあった。大規模な米屋があり、銭湯まであった。その建物のいくつかはいまも残る。

 

バグラニーチナヤ通りにあるレンガ造りの建物は、もと堀江商店。この周辺は多くの日本人が住んでいた

 

やがて帝政ロシアは崩壊し、極東ロシアもソビエト連邦に吸収された。さまざまな規制が敷かれ、居留民たちも商売ができなくなり、内地か満州、朝鮮半島へ拠点を移さざるを得なくなった。現地新聞『浦塩日報』編集長婦人はこう残す。「ウラジオストクのように稼ぎやすく、暮らしやすい場所はそうあるものではない」他の外国人居住者やロシア人たちも街を出ていった。

そのような流れで1922年ごろには10万人まで人口が激減した。その代わり軍事都市として別の発展をした。日本軍に陥落させられた旅順要塞の弱点を徹底分析し、より強固な要塞が海に面して築かれた。結果的には無用の長物になってしまったのだけど。

開かれたとはいえ、ウラジオストクはロシア太平洋艦隊の拠点である

 

親日国ロシア、ウラジオストクはさらに親日的

ソビエト連邦としてのウラジオストクは、日本からは「近くて遠い」存在であり、戦後になって日本人が自由に海外旅行するようになっても対象にされなかった。

ロシアとはつまりモスクワのことであり、サンクトペテルブルクであった。沢木耕太郎氏に影響されてシベリア鉄道にあこがれた当時の若者も、ナホトカまで航路、そこからハバロフスク経由でヨーロッパへ、という認識でしかないか。ぼく自身、ウラジオストクが開放された1993年はドイツで暮らしていたので、モスクワのほうが位置的に近く、ウラジオストクはあいかわらず遠くて遠いままだったのだ。

 

街中のレストランではソ連時代の地図や、ソ連時代の著名人や風景の写真などが展示されている。ソ連への懐古主義というより、単にデザイン的要素が強いと思われる

 

過去2度も直接戦火を交えたのに、ロシア人は意外なほど親日的である。なかでもウラジオストクの人たちは、その傾向が強い。ソ連崩壊後、それまであった中央からのサポートを失って、極東ロシアは経済不況にあえいでいた。ソ連時代は軍事都市としての役割を果たすため、商業都市とは違う発展をしていたのだ。それをいきなり「悪いけどあとは自分たちで適当にがんばってくれ」とさじを投げられちゃったのである。

さぞかし途方に暮れたと思うが、幸い、近くに日本があった。まず目をつけたのが日本の中古車。ソ連製の新車よりはるかに日本の中古車のほうが性能がよく、故障がなく、しかも安価だったのだ。これを仕入れ、ロシア全土で売る。商売にならないはずがなかった。いまもこの街を走る車のほとんどは日本車である。もちろん商材は中古車に限らず、さまざまな中古電化製品、テレビアニメ、食料なども日本から入ってきた。この地のロシア人たちはまず製品を通じて日本を知り、資本主義を知り、自由のありがたみを知り、さらに日本を信頼していった。

似たことをぼくは世界のあちこちで経験している。「日本人はあんたが初めてだけど、日本製品なら知っている」という人たちは意外と多い。壊れない日本製は信頼性がある。それを造った日本人もまた然りに違いない。信頼にはいろんな伝わり方がある。ぼく個人にはなんの功績がなくても、長く日本が培ってきたレガシー(遺産)がこれを補う。

加えて、ウラジオストクには日系居留民と生活をともにしていた古い世代もかろうじて生きていた。同時に居留民たちの清廉さと誠実さ。どこかの国のように、政治的に反日でいる必要もなかったことも幸いした。

 

とつぜんの雨に煙る生神女カトリック教会。そこはちょうどフェリー乗り場と駅のジャンクションである。到着したばかりの列車から降りる中国人観光客。

 

街で見かける東洋人のほとんどは、まず韓国人。彼らはフェリーでやってきて、道いっぱいに広がって大声を出しながら街を闊歩する。夜は韓国レストランで食事を済ますとふたたびフェリーへと戻っていく。中国人も多い。スーパーで爆買いをするのも彼らだ。通りの角を曲がるたびに、写真を撮り合うそんな彼らの姿があった。ぼくは彼らが去るのを待ち、カメラのシャッターを押す。

日本からもっと旅行者が来ればいいのにと思う。増えたとはいえ、日本人旅行者は年間1万人〜2万人ほど。成田から2時間半にしては少なすぎる気がする。ソウルよりも近いのに。

 

ウラジオストクは港町。バーやクラブの数も多い。この「ムーンシャイン」はモダンなレンガ造りのロフト風の内装で雰囲気がすばらしい、バーテンダーはお客と会話しながらも素早くオーダーをこなしていく。週末はすぐに満員になるほどの人気BAR。店内奥にはワインセラーがある。

 

ウラジオストクへでかけよう

ウラジオストクの見どころは多い。
天然の良港をもつ小さな半島は、三方海に囲まれ街のどこにいても海が見える。多くの坂道は歩いて回るにはしんどいが、小高い丘からの眺望に疲れもふきとぶ。舗道がたっぷり広いのもストレスなく歩け、散策が楽しい。とはいえ市内で最も標高の高い「鷲の巣展望台」が192m、歩いてもさほど苦でないが、ふもとまで登山電車で向かった。レトロ感満載な可愛らしいソ連製の丸目の電車である。

 

鷹の巣展望台から見下ろす金角湾大橋。長さ737m、高さ60mの美しい橋は2012年に竣工されたばかりである。

 

中華やイタリアンに比べればロシア料理は、日本ではまだマイナーである。ボルシチ、ビーフストロガノフ、ピロシキといった料理が知られるが、美味しい料理はまだまだたくさんある。ウラジオストクにおいては同じ日本海に面しているということもあって、カニやタラなど魚介類は日本で食べるものとほとんど同じである。

ウラジオストクが他のロシアとちょっと違うのは、肉料理のつけあわせにわりと「そばの実」が食べられることか。高血圧予防に効果があるコリンを含み、脂肪分を吸収し体外に排出してくれるレジスタントプロティンなど、ダイエット効果もある。この地域にあまり太った人を見ないのはこの主食のせいもあるのだろう。

 

じゃがいもや米以外に、ウラジオストクでは「そばの実」が付け合せとしてよくだされる。絶妙な歯ごたえで意外といける。

 

週末はウラジオストクに出かけよう。午前に発てば午後には着く。午後に発てば夕方には帰れる。LCCを使えば往復2万円からある。人も親切、治安もよく、物価も安い。近いのに驚くほどヨーロッパである。この駄文がガイドブックの役目を果たせているとは思わない。それよりこの街の魅力をぜひご自身の目で、脚で、舌で味わってほしい。そんな思いを記事にしました。

 

海とマトリョーシカ

海に面した広場にはたくさんのショップがあり、ロシアのお土産が並ぶ

 

ロシアへ観光するには有料ビザが必要。敷居が高いと感じさせるのはこのことかもしれないけれど、ウラジオストクの場合「電子ビザ(無料)」をWebであらかじめ申請し取得しておけばOK。おどろくほど簡単である。また、比較的コンパクトな街なので健脚な人なら、徒歩で主要なところは回れるけれど、郊外や空港へのアクセスはタクシー、それもスマホアプリで使える配車サービスがおすすめ。ロシアではUBERより” Yandex Taxi “のほうが利用者が多いせいか、配車がつかまりやすいようだ。出かける前にインストールしておくことをおすすめします。

‎Yandex.Taxi
‎Yandex.Taxi
Developer: Yandex LLC
Price: Free

 

 

グム百貨店の裏にはレンガ倉庫の跡地を改造されたおしゃれスポットがある。車両通行がないので散策しやすい

 

ウラジオストクはフェリー発着の港と、シベリア鉄道が発着するターミナル駅が交差する。東アジアとヨーロッパを結ぶ大動脈の玄関口といった役割である。そこにとどまるもよし、さらにユーラシアを横断するもよし。次回はシベリア鉄道にのってハバロフスクへとご案内したい。

 

どうか良い旅を!

 




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なおきん

なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。