シベリア鉄道をひと晩だけ味わう

ハバロフスクを歩くなおきん

 

シベリア鉄道、その着工の理由

1891年、シベリア鉄道を建設するという決定が下る。

ウラジオストクからモスクワまで9,288km。この間を馬車や犬ぞりで横断するのに11ヶ月を要する。モスクワからウラジオストクへ行くのに、アフリカ大陸を大回りしても、船のほうが早い。だがそれではシベリアに無数に点在する町や集落にはたどりつけないのだった。孤島同然の極東ロシア領へ大量の物資や人を運ぶには、どうしても鉄道が必要だ。

ウラジオストク駅のホーム

ホームに停車する、ウラジオストクとモスクワを結ぶロシア号

シベリア鉄道が敷設される前は、首都モスクワと極東ロシアをつなぐのはわずかに馬車道。途中バイカル湖からアムール川を船で行く方法もあったが、冬には河川が凍結し、夏には水位が下がって使いものにならなかった。広すぎるっ国土をもてあましている感があった。当時、帝政ロシアはクリミア戦争で疲弊しきっており、国庫はほぼ空っぽ状態。加えて歳入は2億ルーブル。シベリア鉄道建築には、だのに3.3億ルーブルかかると見積もられ、大小何百もの河川が無人の大地がその間に横たわっていた。まったく予算に合わない。

だが皇帝アレクサンドル3世は、鉄道敷設を決行した。

理由は、恐怖心だった。

清が、北京からロシア国境に向けて鉄道を敷設し、英国がこれに協力するというニュースが入ってきたからだ。極東ロシアの人口はわずか200万人。対して清は4億人と圧倒していた。つまりこのまま座していれば、極東ロシアは清に奪われる可能性だってある。このことへの恐怖心が、アレクサンドル3世をしてシベリア鉄道の建設を決行させた。清よりも先にシベリア鉄道を完成させねばならない。皇太子ニコライ(後のニコライ二世)に命じ、これの陣頭指揮をとらせた。

シベリア鉄道建設の様子

国家歳入以上の予算をかけてシベリア鉄道を建設したのは、清にロシア領土を奪われるかもしれないという恐怖心であった。

日清戦争とシベリア鉄道

歴史とはつくづく皮肉なものだと思う。

清の脅威からシベリア鉄道建設は着手され(1891年)、その清を負かした日本(1985年)は、シベリア鉄道完成に脅威を感じロシアとの開戦に踏みきった(1904年)。つまり4年後、清は日本との戦争に負けると知っていればシベリア鉄道は建設されなかったし(されたとしてもずっと後のはずだ)、シベリア鉄道が建設されなければ日本はロシアと戦争をしなかったかもしれない。そのようにシベリア鉄道は、近代日本のありようを変えた。

そんなシベリア鉄道も、いまではロシア鉄道予約サイトで簡単に購入できる。拍子抜けしてしまうくらいカンタンに。ぼくはシベリア鉄道の先っぽ、ウラジオストク➖ハバロフスク間(ロシア号1等寝台)チケットを購入した。移動は時間にして11時間、座席はそのまま寝台になり、フルーツたっぷりの朝食がついて7千円、シャワー付きの特等でも1万円くらいだ。

ロシア号の客室乗務員

ロシア号の客室乗務員

 

日が落ちかけたロシア号の1等寝台車の個室のようす。

少し前までの自分ならこんなことはしない。一番安い座席を駅の窓口で直接買い(3等車はネットでは買えない)、コンパートメントで同室の他の乗客たちとパンやウオッカを回しながらワイワイ騒ぎ、言葉が無理なら筆談しながらでもコミュニケーションをとることだろう。なんならモスクワまで乗っていたかもしれない。

けれども50も半ばのおじさんである。食堂車でビールを飲み、ロシア料理を食べた後は、誰にもじゃまされずぐっすり寝台で眠りたい。白樺並木を7昼7夜、身動き取れない車内でながめながら過ごしていたくない。というわがままを通しても罰は下るまいと思う。

食堂車のメニュー

食堂車のメニュー。街のレストランと値段は変わらない。料理はキッチンで調理されサーブされる

夕方ウラジオストクを発したロシア号は、朝の7時にハバロフスクに到着した。
世話をしてくれた太ったロシアおばさん(車掌さん)にお礼を言い、カメラバッグを担いで列車を降りる。さっそくカフェで朝のコーヒーを、と思ったが駅構内も駅前にも開いてるカフェはどこにもない。これで人口60万人都市のの中央駅かと残念に思うが、GoogleMapで街の中心の方角を確認し、その方向へと歩きはじめた。気持ちのいい公園を抜け、住宅街を歩いているうちにようやくパン屋が開いているのを見つけた。

ハバロフスク駅のホーム

早朝、ハバロフスク駅のホームに滑り込んだロシア号

 

ハバロフスクに到着

ハバロフスク。その都市名は、この地を発見した探検家ハバロフ氏が由来だ。バイカル湖からオホーツク海へ流れるアムール川と、南に中国国境沿いに流れるウスリー川の合流点。水流に恵まれた地、ともいえるが冬場はその川も凍ってしまう。ロシア革命直後はシベリア出兵により日本軍に占領(1918〜1920)されてもいた。そのころこの地でくらしていた日本人は600人。ウラジオストクの10分の1とはいえ、まとまった人数である。ソ連時代はウラジオストクが閉ざされていたため、このハバロフスクがシベリア鉄道の玄関であった。

ハバロフスク駅

ハバロフスク駅。1897年竣工されたネオロシア様式の駅舎。

 

ソ連崩壊後もレーニン像はそのまま広場に残り、街を歩いていてもソ連の面影を多く残していることに気づく。

レーニン像

 

レーニン広場と女性建物に掘られたレリーフや、ソ連国旗がデザインにあしらわれていたりした。ここに住むロシア人にとってソ連時代は、自由こそ奪われてはいたが、強い祖国という自負と、あらゆるものがタダで手に入り、カネがないからといって卑屈にならなくてすんだ。そしてあいかわらず中国の脅威にさらされていた。アムール川の向こうは中国、肉眼で見える距離だ。1戦交えることになれば最初に攻撃を受ける街でもある。

かといって街がピリピリしているわけではない。むしろ逆で、競争相手も少なく、ロシア内でも給料や物価水準が高いせいもあって、どこかのんびりした雰囲気がある。モスクワでスリや強盗に怯えるより、ずっとマシな暮らしができそうだった。冬の最低気温はマイナス40度。暮らすなら夏場に限る。

ムラヴィヨフアムールスキー通り

ハバロフスクでもっとも大きなムラヴィヨフアムールスキー通りの舗道は10人が横一列になって歩けるほど広い。

通りの舗道は広く、端と端でキャッチボールができそうだった。建物も大きいが高層ビルがないので空も広い。しばらくいると自分がコロボックルになった気がした。レーニン広場を越え、アムール川のほとりへと歩を進めると、途中に巨大なグラド=ハバロフスキー・サボール・ウスペニヤ・ボジエイ・マテリ正教会の立つ広場にぶつかる。教会というよりはなんだかディズニーランドのシンデレラ城に見えなくもない。ここから川辺りにかけて咲く梅の花が美しかった。梅の花木のあいだからシンデレラ城の青いとんがり屋根を眺めていると、その前を金髪に青い目の少女たちが舞うように交差していった。

グラド=ハバロフスキー・サボール・ウスペニヤ・ボジエイ・マテリ

正式名はグラド=ハバロフスキー・サボール・ウスペニヤ・ボジエイ・マテリ教会だが、長すぎるのでウスペンスキー教会と呼ばれている。

 

梅の花のあいだからのぞく、まるでシンデレラ城のようなウスペンスキー教会のとんがり屋根

 

お腹が空いたので気の利いたレストランを探す。あいかわらず広い舗道をしばらく歩き公園のベンチで一息入れようとしたちょうどそのとき「レストランはロシア」と日本語で書かれたレストランを見つけた。半地下の階段を降り、入り口にいたおじさんに「開いてる?」と聞いてみる。おじさんはちょっと待てという仕草をし、ウエイトレスを呼びに行く。しばらくして満面の笑みを浮かべたウエイトレスが店の奥からあらわれ、おもむろにスマホを取り出し何ごとか言い、ぼくに画面をみせる。画面には日本語で「お店は12時に開きます」と表示されていた。グーグル翻訳である。時計を見るとあと20分ある。出直すことにした。「レストランはロシア」、まるでロシアそのものが世界一のレストランであるような味わいがある。事実、なかなか美味しい料理を出すレストランだった。

レストランはロシア

レストランはロシア。シュールな日本語は表の看板だけでなく、メニューにもそう記されていた。

 

ハバロフスクの街で見るロシア人たちも、見かけはスマートで美男・美女が多いように思えた。やはり極東ロシアは西側の大都市にいるようなロシア人と人種が少し異なるのだろうか? 参考までにロシアは7つの連邦管区から成り、ハバロフスクにはその管区の本部がある。つまり極東ロシアの首都というわけだ。さらにここにある大学はたいてい日本語学科があり、日本に留学する学生もいる。そのせいか、日本で暮らすロシア人はたいてい細身で、おとなしめの性格の人が多い。

 

スパソ プレオブラジェンスキー大聖堂

スパソ プレオブラジェンスキー大聖堂

 

スパソ プレオブラジェンスキー大聖堂

数百メートル先から見ると、その巨大さがわかるスパソ プレオブラジェンスキー大聖堂。

 

 

スパソ プレオブラジェンスキー大聖堂そばの、戦没者記念碑前で。

 

ロシアと日本、互いに近くて、近い国

ここ近年、来日するロシア人が増えた。
日本政府観光局によれば、訪日ロシア人の数は前年比22%増の94,800人(2017年)とある。日本行きビザが緩和され、S7やオーロラ航空などLCCが充実した。ロシア人にとっても日本は近くて遠い国だったが、ここ数年で状況は一変している。中でも、ハバロフスクやウラジオストクで暮らす若い人のアニメや漫画ファンにとって、日本は近くて近い国なのだ。そんなロシア人たちが、日本に旅行するときガイドブック代わりに手に持つのが「KIMONO」という雑誌である。

KIMONO

雑誌「KIMONO」のファッション特集記事より

 

調べてみるとこの雑誌、2015年創刊、隔月刊行、主に20〜40代の女性をターゲットにしたファッション・アート系の雑誌。アプリでも閲覧できる(ロシア語だけど)のでパラパラとめくるだけで、そのセンスと日本文化への洞察に満ちた雑誌であることがわかる。人気コンテンツはインタビュー記事。特に日本人がロシアに対してどう思っているか、という点に関心が高いようだ。WEBでも記事が読めるので、Google翻訳使って読んでみてください。

 

ハバロフスクとウラジオストク、東京から飛行機だと沖縄やソウルよりも近い極東ロシアの街。日本の周辺国は同じアジアの国、というイメージが強いけれど、こうした極東ロシアはそれらを裏切るヨーロッパの都市。しかもむかしから日本と関係性も深いのだ。

 

ぜひ、次回の旅の候補のひとつとして
極東ロシアをおすすめします。

 

 

ハバロフスクを歩くなおきん

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なおきん

なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。