靴に自分の足を合わせる
会社を辞めて1週間が経った。
このくらいだと、まだ、長い休暇を過ごしているような気分でもある。それでも役所に行って国民年金の手続きをしたり、納税の切り替えなどを行っているうちに、じわじわと自分にはもう給料日というものがないのだと思う。平日の昼間に近所を歩けば、不審な視線に気づくこともある。不安がないわけではない。だが自分で決めたことである。
他人の会社に務めるというのは、会社という靴に自分の足を合わせることだ。 【シルバーノ(友人)】
と古い友人が言っていた。「靴」というのがイタリア人らしい言いまわしだが、なかなか的を得ている。窮屈だったり、ぶかぶかだったり、靴にだっていろいろある。だが靴のほうからサイズを合わせてはくれない。だから自分で調節するほかない。足先を丸めたり、分厚い靴下をつけたりしながら、足を靴に合わせるのだ。無理なら靴を換えるか、サイズに合った靴を自分で作るほかない。
会社で苦しむ人はたいてい「いいひと」である。ストレスの原因としては「人間関係」が多く占める。たとえば日本語には「機嫌」という言葉がある。「ご機嫌いかが?」「ご機嫌とり」「不機嫌」「機嫌を損ねる」・・、仏教用語の「議嫌(きげん)」が語源と言われる。意味するところは「そしりをきらう」。僧が修行に集中するため、他人のそしりを受けないように定めた仏教戒律のひとつ。ようするに相手のために自分はガマンする、という自己犠牲の精神である。だが行動の基準は相手軸になる。
職場では常に、だれかしら不機嫌である。
原因はそれこそ掃いて捨てるほどあるが、総じていえば「自分が不遜に扱われている」という心理が起きやすいことにある。周囲の人に過剰に気を使いがちな「いいひと」は、こうした機嫌の悪い人に左右されてしまいがち。自分を取り囲む環境をよりよいものにしたいと思うほど、自分は苦しむことになる。
周囲の不機嫌に苦しむ「いいひと」
自分を置いてきぼりにし、周囲の悪感情を自らがクリーナーとなって集塵しながらすごすいいひと。悪い人は常に自分を優先し他人なんてかまっちゃないが、いいひとはまるで他人の人生を歩むかのようにふるまう。他人の気持ちに焦点を合わせて発想し、行動する。それでもちゃんと明確な意図を持って特定の相手のためにするのなら、それは思いやりであり、配慮である。だから必要以上に自分は苦しんだりはしない。問題は誰かはわからないけれど自分をとりまく他人と思われるもの。いわゆる「世間」だったり「社会」、または「会社」なんかがある。同じ他人軸でも「無自覚な他人軸」といっていい。
ではなぜ「無自覚な他人軸」に焦点を合わしたり、行動したりするんだろうか? そこが人間をして社会的動物と言われるゆえんである。社会的動物は他者からの評価で生きている。他者から評価して欲しい、評価されたいという期待の心理が「いいひと」の正体でもある。不機嫌な人は他者から評価してもらえていないという苛立ちを常にはらんでいる。いいことをしてあげたのに、見返りがないと。
実は「いいひと」は評価されたがる
会社に勤めていてぼくが最も苦手としていたのは「他人の評価」であった。立場上、多くの従業員の評価をしなくてはならなかったが、年に数度この時期が来るたびにひどく憂鬱になった。これも仕事と自分にいいきかせて耐えてきたが、澱のように自己矛盾を抱え、ついに耐え切れなくなった。人材を育てるためには、評価業務はセットである。その人のどこを育て、どこを改めさせる。もっともだと思うが、それを絶対評価にできたとしても、それがすなわち昇給や異動にリニアに反映できるかといえば難しい。組織とは絶対評価とは別に会社都合があるからだ。そんな都合に目をつむり「他人の評価」を下すなど、ぼくには出来なかった。いうまでもなく管理職失格である。ならば辞するまでである。
他人の会社という靴に、ついに合わせられなかった自分
「いいひと」であることも演じ切れない
それも含めて仕事というなら、ぼくはそれを含まない仕事を選ぶ。ライフワークになり得ないからだ。やる気やエネルギーは喚起されればいくらでもあるが、時間だけは有限である。人生3万時間のうち、すでに2万時間が費やされた。やるべきことは多いが、やるべき時間はそれほどない。やる気やエネルギーが湧く快適な状態に自分をしておく。
自分軸を持つことの大切さ
自分がないがしろにされていないか? その心理は他人の評価に過敏になることもある。人から悪く思われたくない。それでいいひとを演じるのだ。他人の評価、つまり他人軸だから「いいひとに思われたい」という気持ちが先行する。そこに自分が本当にいい人かどうかは、もはやどうでもよくなっているのではないか。それで「相手にとっていいひと」を演じようとすれば、疲れてしまうのは当然だ。いったい相手が何人いるというのだろう?すべてにあわせて身がもつはずがない。
「いい人だと思われたい」という気持ちは尊いけれど、無理がある。そうではなく、自分のありようは自分で決めていいのだ。そうすれば「いい人でありたい」という考えに自然と向かう。世間はもちろん、会社からの評価や他者からの評価は気にしないでいい。自分を裏切ってまで、他者からの評価に合わす必要はない。わざわざ他人の靴に、自分の足を合わす必要はない。
いい人と思われなくてもいいから、いいひとでいよう
一見、矛盾しているように思えるかもしれないけれど、両者はまったくちがう。後者は自分軸で考える「いいひと」のこと。他人の不機嫌ではなく、自分の不機嫌にこそ対応できることをいう。意識できれば対応もできるのだ。他人の手を借りることなく、自分で自分の不機嫌を取り除くことが出来る。結果、毎日を健やかにすごせるようになる。自分を守るのは自分でしかないし、自分を評価するのもまた自分でしかない。
がんばろう。エネルギーを使いまちがうことなく。
やるべきことはぜんぶ自分が教えてくれる。
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