初めて「アカスリ」なる言葉を聞いたとき、正直ばっちいなと思った。 だって垢ですよ、垢。 不潔じゃないですか。
ここ韓国ではそんな「アカスリ」を商売にする人たちがいるらしい。 こともあろうに、他人の垢をタワシタオルでこすって落とすことを生業としているのである。 これってどうなのか? 親は悲しんだりしないのか?
もしかしたら「アカスリ」は、1940年代末から50年代にかけて吹き荒れたマッカーシズムの影響なのではないだろうか?と思うことがある。 ローゼンバーグ事件やベルリン封鎖、中華人民共和国成立、そして朝鮮戦争。 じわりと押し寄せてくる共産化への恐怖。 その過剰防衛が自由諸国をして「アカ狩り(Red Scare)」に走らせ、50年代半ばまでそれは続いた。
こと韓国においては「共産主義」は実態を伴う恐怖であった。 恐怖するなという方が無理であろう。 米・ソ、イデオロギー対立を母とする朝鮮戦争によって、朝鮮半島は荒廃し、ついには一般市民だけで約400万人が犠牲となったのだ。 分断国家、離散家族、日本人には想像を絶する悲劇がトラウマとなり、韓国市民に「共産主義=アカ」に対して過剰反応させたんじゃないかと思う。
「アカスリ」とはつまり、形を変えた「アカ狩り」なのだ。 韓国の人たちはアカをこすり落とすことで、共産主義の恐怖をふるい落とすのだ。
そんなことを考えながらぼくは横たわっていた。
大浴場の一角。 ぼくのほか、同じように横たわる男たち7人。 誰もがスッポンポンだ。 その光景はさながら死体安置室のよう。 力なくうなだれ、横に立つデカパンおやじに身をさらしている。
「痛くしないでね」と願う。 口には出さないけど。
もちろんその願いは届きはしない。 オヤジはぼくの背中を、力まかせにわっし、わっしとこするのだ。 タワシタオルが鉋(かんな)に思えてくる。 ぼくはまるで削られるブナの木だ。 あるいは消しゴム、川下へ流された小石? こんなふうに人は丸くなっていくのであろうか。
「ジョコ・・」
おもむろにオヤジが言う。 少し沈黙。 ああ、横のことだと気づき、ぼくは横になる。 股の上に乗っかっていたタオルがぽろりと落ちる。 タオルを元の場所に戻そうと腕を伸ばすぼくの、その手首をオヤジにとられ、目的を果たせぬまま頭の方に持っていかれる。 いけない、脇の下こすりだ。 このポーズはちょっと恥ずかしい。 しかもくすぐったくて笑ってしまう。 辱められつつ、笑う。 誰がみてもMではないか。
「あおむテ!」とオヤジ。
もちろん、”あお向け”のことだ。 もぞもぞと、言われるままぼくはあお向けになる。 もはやタオルは尻の下、一糸まとわぬとはことのことをいうのだろう。 オヤジは足もとへと回る。 ちょっと待て、その角度もかなり恥ずかしい。 しかしオヤジはタオルを構えると、渾身の力で足首から股下まで一気にこすり上げてくる。 タオルの向かうその場所にはなんと・・・
ポニョだ。
「股の下のポニョ」があるのだ。
タオルは容赦なくそこめがけて突進してくる。 いけない! ポニョがやられる!
ぼくがひるんだその瞬間、こんどは足先に何かがあたるぐにゃりとした感触・・・
オヤジのポニョだった。
デカパンをはいたそのオヤジがホモ男でないことを、今は信じるしかないのだろう。 韓国人にしては珍しく毛深いオヤジ。 アカスリが終わると、こんどはオイルマッサージであった。 ぬるぬるとオイルが塗られ、オヤジの逞しい手は腕から胸へと這っていく。
「うちゅぶちぇ・・・」
オヤジの日本語は、本当は男色なまりなんじゃないか? そんな考えが一瞬、頭をよぎる。 頭を振ってふるい落としつつ、ぼくはうつぶせになる。 さらされた尻が少し心配だ。 背中にオイルがたらされ、オヤジってばこんどは肘を使って背中や肩をマッサージ。 意外と気持ちがいいのがなぜか悔しい。 好きでもないオトコに抱かれるとき、オンナはこんな気分になるんだろうか・・・
元旦からそんなことを考えながら、2009年の抱負についてはどうなのだ、自分? と自問自答していたその瞬間、オヤジの肘がぷるんと尻の谷間に埋まった。
凍てつくような外気にさらされるソウルの街角、しかしその裏側では今日もアカスリや赤唐辛子に汗流す人々の姿がある。 ぼくもいま、その中に含まれたことをうれしく思う。
冷や汗だったけど・・・
■ オプション・メニューふだ
△ これを手首につけてスッポンポン。 ちなみにフェイシャルも
■ ネイル(左)もコスプレ(右)も
△ 右:スパイダーマンはサンプルとしていかがなものか
△ 左:これする客はいるのか!?
以上、いかがなものか?
最近のコメント