オリンピックに国内が湧いている隙に、申し合わせたかのように可決された消費増税法案。それから李明博大統領の竹島上陸。それらのニュースにかき消されあまり話題にならないニュースがある。
日本赤十字社と朝鮮赤十字会が北朝鮮に残る日本人の遺骨返還や墓参りの早期実現を目指して協議しているというものだ。
「北朝鮮に日本人の遺骨?」
ちょっと不思議に思ったかもしれない。「拉致被害者の?」と頭をよぎったかもしれない。でもこれ、終戦のどさくさにソ連によって強制連行され、第二シベリア鉄道建設のために強制労働させられた57万5千人のうち、北朝鮮に移送された約3万人の在留邦人の遺骨である。
1945年8月15日、終戦。
連合国の求めに応じ、降伏を受け入れ武装解除した日本兵と満州に住んでいた民間人は、終戦後も満州や朝鮮半島で戦闘行為をしていたソ連軍に、次々と殺されていった。子供だろうと老人だろうと女性はなんども強姦され、捕虜となった日本兵らとともにシベリアの奥へ強制連行されていったのだ。
ここまでは多くの日本人が知るところである。
▲ 抑留者によって描かれた強制収容所のようす【吉田勇 画】
だが終戦の翌年、1946年春、こんどはシベリアからさらに北朝鮮へ移送された邦人までいたことがわかったのはつい最近のことだ。2005年、ロシアより日本政府にこの時の移送者27,755人もの名簿が渡されたことがきっかけである。
問題はこの名簿の中身だ。
なんとこの名簿の人達は、シベリアでの過酷な労働に耐えられなかった人たち。つまり負傷者や病人、女性や子供たちであった。しかし彼らは開放されたのではない。ましてや移送先は病院や療養所でもない。ただの強制収容所である。こうして2万7千人以上の人たちを待ち受けていたのは、シベリア以上に過酷な運命だったのだ。
▲ 当時の日本人はソ連全土に振り分けられ、強制労働させられた。先月訪れたグルジアのトビリシにあるビクトリアパークにもシベリアから移送され、亡くなられた日本兵慰霊碑があった。
サムハプニ収容所やチョンジン収容所など、北朝鮮各地に分けて連行され、例外なく過酷に強制労働をさせられた。弱りきっている上、食料も医薬品もろくに与えられない。彼らは到着するなり息絶えた。コレラで一度に数百人亡くなったり、屋根のない場所で寝泊まりさせられ毎日バタバタと倒れていった。そして二度と目覚めることのない朝を迎えていったのだ。
戦争はすでに終わっていて、しかも北朝鮮領土は第二次大戦中は戦場ではない。物資も食料も豊富に蓄えられていた(一部ソ連に略奪されたが)。本来なら応急処置を施し、日本へ帰還させられるべき人たちである。今に至るもそこから戻ってこられたのはわずかである。シベリアのほうがまだマシだったと思えるほどに。
理不尽なシベリアでの強制労働は11年続いた。それでも抑留者57万5千人のうち、劣悪な環境で過酷な労働に耐えられず5.5万人もの方々は、シベリア抑留中に亡くなられた。だが、47万人3千人は生きて再び日本へ帰還することができた。
だが残りの4万7千人は帰還も出来ず、消息も絶え、長い間行方不明者として記録されていた。少なくとも7年前、ロシアから手渡された名簿や移送関連文書を見るまでは、そこからNHKなどの取材で生き残った抑留者たちの証言が公開されるまでは・・・
痛ましすぎる話である。
北朝鮮の地で、この方々はどれほど生きて日本に帰りたかったことだろう。身体の弱い病人や女性、子供たちである。察して、この身を切り刻まれるような痛みを感じないだろうか。それをである。
赤十字社を通じて交渉、などとあるが要するに北朝鮮は「遺骨を返して欲しけりゃ取りに来い」と言っているのだ。そこには謝罪の意もなければ、もちろん自省もない。
このタイミングで北朝鮮の軟化は、もちろん金正日が死去し、体制がややオープンになったと見る向きもあるだろう。があれ以来、日本人拉致被害を取り戻す交渉はただの一歩も進んではいない。
米国との関係修復、日本からの食料・経済支援が喉から手が出るほど欲しい北朝鮮は、その見返りとしてこの提案だったのではないか。そのため、日本人拉致については「解決済み」としたいためのバーター取引ではなかったのか、とぼくは思う。
2012年の3月ごろ、中井洽元拉致問題担当相(国会内で秋篠宮さまに「早く座れよ」と野次ったことでも有名)が台湾に行くふりをして北朝鮮と極秘会談をしていた事実が発覚したが、今回の裏取引に関係しているとぼくはみている。
オリンピックの声援にかき消されがちの
ニュースには特に要注意である。
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