フィリピン台風で神風を想う

f:id:naokin_tokyo:20131130005902g:image

 

台風30号の爪あとが今なお生々しいフィリピン沖で、自衛隊ヘリ空母「いせ」にアメリカ軍のオスプレイが着艦する写真を見て、しみじみと感慨深い。

この場所はまさに1944年10月、太平洋戦争中最大の激戦といわれるフィリピンの戦い。日本軍とアメリカ軍の間で死闘が繰り返され、両軍あわせて35万人もの戦死者が出た(うち33万人は日本軍)。あれから69年、こんどは日本とアメリカが協力しあって、大勢のフィリピンの被災者を救済しているという事実。感慨深くないわけがない。

 

f:id:naokin_tokyo:20131130005857j:image
ヘリ空母『いせ』と、甲板に着艦するオスプレイ

フィリピンはアメリカの植民地だった。
それを1942年、攻め入った日本軍によりアメリカ軍を撃破、これを追い出す。翌1943年フィリピンは独立した。その後日本軍はしだいに劣勢になり、1944年フィリピン奪還に戻ってきた数倍のアメリカ陸海軍を迎え撃つことになった。神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が組織され、実戦投入されたのはこのフィリピンの戦いが最初。そしてレイテ沖海戦がその天王山となる。戦艦武蔵が沈み、大和が被弾した。ついには日本空母艦隊が全滅した。

戦後の平和教育の成果もあって、日本人の間では神風特攻隊はおおむねネガティブである。「ほとんど効果はなかった」とし「特攻隊員は犬死だった」と伝えられた。また「狂信的で人道に欠く」ともいわれた。ぼくが中学校のときは、神風特攻隊の実写フィルムを鑑賞するという授業があった。アメリカの軍艦に向かって飛来する特攻機。それが一機、また一機と撃ち落される。そのたびに教師は拍手をし、生徒に同じようにさせた。皆おとなしく従っていたが、いまならこの教師を殴り倒していたに違いない。

250kg爆弾を機体に固定し、敵艦船に体当たり攻撃する。攻撃が成功することはすなわち死である。平和時のいまからすれば、狂信的だと思えなくもない。だけど命を引き換えに守るべきものがあった。それは郷土。国であり愛する家族である。自己犠牲の精神は武士道そのものだが、一般の日本人にとってもなじみ深い。だが武士道はGHQによって危険と判断され、戦後教育では武士道を美化しないよう徹底された。戦前の日本の偉業は消されたか、曲解するよう操作された。今後自分たちに歯向かわないよう「日本を弱いままにしておく」ことが必要だったのだ。

一方、海外の神風特攻隊の評価は高い。
相手国だったアメリカやイギリス、フランスなど欧米国。台湾、ミャンマー、マレーシア、インドネシアなどなど。特攻隊が出撃したフィリピンのマバラカット東飛行場の跡地には、フィリピン政府によって建てられた神風記念館(Kamimaze EAST AIRFIELD PEACE MEMORIAL)がある。地元の人達はいまも特攻隊員のことを英雄と崇め、永遠に記憶にとどめるべきだと後世に伝えている。1983年、マニラ国際空港で暗殺された(衝撃的でした)アキノ氏は、このマバラカット近くの生まれてあることを誇りにしていると日本の新聞記者に語っている。

f:id:naokin_tokyo:20131130005856j:image
▲ Kamikaze East Airfield Peace Memorial フィリピン

神風特攻隊はフィリピンの戦いのほか、沖縄戦でも実行された。「大した効果はなかった」と喧伝されてはいるが、どうも意図的にそうしたふしがある。リチャードベイツ米海軍中将は「日本の奴らに、カミカゼが軍に多くの被害を与え、多くの艦を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから我々は艦がカミカゼの攻撃を受けても、航行できる限り現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない」と命令した。おそらく敵を勢いづかせたくなかったからだろうし、講和条件が不利になることを恐れたに違いない。

特攻による命中率は2割程度とされていたが、実態は56%もあった(戦後公開された米軍の機密公文書による)。被害一覧は次のとおり。

  • アメリカ海軍
  • 被害: 撃沈 30隻、撃破 292隻
  • 戦死:12,000人以上
  • 戦傷者:多数
  • 恐怖で精神をやられた者:多数
  • 神風特攻隊員
  • 戦死:5,845人(海・陸軍あわせて)

f:id:naokin_tokyo:20131130005900g:image
▲ 神風攻撃により爆発を起こす米空母

 

カミカゼ攻撃による効果は圧倒的であった。
隊員たちは主に10代後半から20代の青年で、どちらせにせよ日本は負けると知っている者も多かった。ならば一矢報い、少しでも講和条件を有利にしたいと考えた。つまり戦後の日本人を守ろうとしたのである。

隊員たちは自分のことよりも、残されていく両親や子供、奥さんのことを案じていた。そのことは彼らが残した遺書を読めば痛いほどわかる。たとえばこんな遺書がそうだ。

素子(もとこ)、
素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。f:id:naokin_tokyo:20131130084648j:image:right

素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。

優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

 

追伸、

f:id:naokin_tokyo:20131130005901g:image

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。(植村眞久大尉 東京都出身 立教大学卒 25歳)

生まれたばかりの娘への思いがひしひしと伝わってくる。どんなにわが子を抱きしめたかったことだろう。娘が大きくなったある日「私のお父さんはどこ?」と母親に聞く。そのときのためにと残した手紙。死への未練はみられない。だが娘が悲しまないようにと、そのことばかりを案じているのがうかがえる。

もうひとつ。
こんどは妹に残した手紙である。

なつかしい静(しい)ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ! 
大石清伍長 大阪府出身 飛行学校卒 戦死)

妹思いの兄。だが戦況は厳しい。やはり自分が死ぬことよりも妹のこれからを案じている。飛行機に乗り込み、エンジンがかかる。死に場所となるコクピットで遺書を書く。どんな思いだっただろうか。「泣くなよ静ちゃん。がんばれ!」そうしたためながら、どんなに会いたかったことだろう。顔はもうくしゃくしゃ、だがぐっと涙はこらえる。周りには彼を見送る上官や部下、整備兵などがいる。武人の本懐を意識する。手紙を書き終えた大石伍長はそばにいた整備士にそれを渡し、妹に届けるようにとことづける。次の手紙はそんな整備士から、大石伍長の妹さんに送られたものだ。毎日特攻隊員を見送る整備士たちもいたたまれない思いだったに違いない。

 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら (大野沢威徳 万世基地)

わずか数十年前の日本人の姿である。
心やさしく力強い。そしてせつない。

彼らが身を呈して残してくれた日本にぼくたちは生まれた。だがぼくたちは彼らの犠牲を真に受け止め、引き継いでいるだろうか?たった一度戦争に負けたとたん「日本は反省すべきだ」などと言い出す知識人の小賢(こざか)しさ。戦後の価値観で戦前の日本を断罪してみせるひとたち。そんな人達の言論をみて「日本人みずからそう言ってるじゃないか」と、反日の根拠に乗じる中国や韓国。彼らの声が大きいからなだめておこうと、よく考えもせず謝罪や反省をし続け、あげく、残された多くのものを失った。そもそも誰に何を反省しているのかさっぱりわからない愚かしさ。周辺でエスカレートする反日行為は、こうした戦後直後から積み上げられた小賢しい行為の成れの果てでもある。

 

f:id:naokin_tokyo:20131130005858j:image
▲ 米戦艦に体当たり寸前の特攻機

 

フィリピンで亡くなられた日本軍将兵。
彼ら英霊たちはいま、フィリピンの救済のためにアメリカ軍と協力しあっている自衛隊員達を見てどう思うだろうか? ぼくは思うのだけど、きっとよろこんでいるに違いない。自ら投げうった命。それは個人の恨みつらみを晴らすために捨てたんじゃない。残されるものたちを思い、それを守るためにやったのだ。

彼ら英霊を想うたび、たしかに反省したくなる。

12 件のコメント

  • 読みながら、涙が止まらなくなりました。
    体中に鳥肌が立って、ゾクゾクしています。
    特攻隊を描いた小説や映画など、いくつもありますが、
    こんなに当時の方たちの様子を鮮やかに描かれた文章に、初めて触れました。
    遺してゆく家族を想い、愛する人を想い、
    自らの命を抱いて敵の空母に突撃する。
    彼らはきっと、敵の兵士たちにも家族がいることを想ったのでしょうね。
    せつないです。
    わたしたちは、もっと先人たちの想いを大切にしなければならないと、
    とても思いました。

  • 日本、不思議な国・日本。そこいらじゅうに明治維新以来の 「加速度試験」 由来の色々な凸凹があるのだけれども、本気で 「世界の一等国」 を目指した国、その為の脱亜入欧でした。KAMIKAZE は必要だったのでしょう、しかし九州にはKAMIKAZE に終戦まで反対を押し通した100人規模の部隊もあったようですし、それはそれで日本の懐の深さを感じます。実はドイツにも KAMIKAZE はありました。それは高度1万メートル以上を巡航する米の重爆の操縦士たちを戦闘機の主翼の端で殲滅した後で脱出生還せよ、と言うものでした。

  • 東日本大震災での世界中からの温かい支援を実感し、今回のフィリピンの台風被害に対して日本でたくさん義捐金を送る人がいて、日本政府も大規模な援助を速攻で実行しました。自身も1回のフィリピン旅行で使っている費用をためらうことなく出しました。日常では10円すらケチる私なのに!実際に受けた感動や体験によって、人や国の行動はこんなに変わるんですね。
    一方、四川の震災で各国の援助を断った中国。もしあのとき支援を受け、世界のありがたさを実感していれば、国家間の軋轢とか、人民の言動とか、もっと違った別の世界が今頃はあったかも・・・と思います。いつも論点がずれててすみません。
    『永遠の0』は私のベスト3に入っていて、あの読後の恍惚感は私の拙い文章では表現できないです。隊員の遺書と整備士の手紙は、胸が苦しいです。歴史にはそこにいた人の想いがあり、決して歴史を捻じ曲げて伝えてはいけないですね。

  • 私の祖父も戦死をした一人です。
    そして、戦火を共にくぐり抜けた仲間に、私の祖母の無事と、そして幼かった父の健やかな成長を祈る言葉を託した一人でもあります。
    出征する直前まで、祖父と祖母、父は台湾で暮らしていました。

    40代の中頃に入り、そのようにして亡くなっていった祖父、そして遺された祖母と父を日本の故郷に呼び戻してくれた家族がいたからこそ、今、こうして自分はこの世に存在し、毎日を生きている、そのことを考えると感謝の気持ちが溢れます。祖父の祈りの中で生かしていただいているような気持ちにもなります。大変貴重な記事をアップしていただき、ありがとうございました。

  • なおきんさんと同世代の広島出身者です。
    小学生のころは、戦場の映像が、テレビでチョイチョイ流れてましたよね。
    コンバットなんていう戦争ドラマにも、ところどころ本物の戦闘映像が混じってたりして、迫力ありましたよね。

    5年生のころだったか、日曜日の午前中に、たまたまつけていたテレビで、太平洋戦争の空中戦の映像をやってました。

    グラマン戦闘機にカメラが据えてあるのでしょう、前を飛ぶゼロ戦が銃弾を浴び、火を噴きながら墜落していく映像をやってました。

    メカ好きの小学生だった私は、まるでアクション映画を見るような感覚でその映像に見入っていたのですが、一緒にみていた父(昭和4年生まれ)がつぶやいた言葉に、はっとしました。

    「あの中に、日本の若者が乗っとる・・・」

    以来、戦闘写真をそんな目で見るようになりました。

    今回のエントリーにある戦闘写真も、そうなんですよね。この中に日本の若者が乗ってるんですよね。
    この瞬間、あの飛行機のこの操縦席の中で、どんな思いで、どんな顔をしているのでしょうか。
    その瞬間に至るまでに、何を考え、どんな思いだったのか。

    飛行兵だけではない。兵士が戦場にいるときの思いは、どんなものだったか。

    そこに思いを馳せない反戦論は、単に思考停止しているだけだと思います。

    兵士たちは、決して殺人鬼などではない。

    愛する人々を、何がなんでも守り抜かねばならないという、強い強い使命感。そのためには、戦場に行き、命を捨てるしかなかった、まさに究極の選択。そんな状況を呪いながら、しかし、その使命感で戦った人。まさに英霊だと私は思います。

    その思いを真摯に受け止め、受け継ぎ、尊ぶ有効な手段が、戦力不保持だとは私は思いません。

    「戦争することなく愛する人々を守り抜く」ためにこそ、戦力を持つ必要があると思います。

  • 昨日、飛行機の話しをしていた際に、祖父がゼロ戦の設計者だった旨の発言をしたところ、速攻で「それってA級戦犯?」と問われました。
    日教組教育の影響って強いですね。思わず絶句してしまいました。
    また、自社内の在日の方が、取引先に東郷という名前の方がいただけで「戦犯者を雇っているのはおかしい!」としきりに騒いでいたのも記憶にあたらしく(つか、業務で韓国語使う機会ないのに、韓国語で電話しまくるのやめて欲しい。仕事しなさいな…。ちなみに、そんな方々のいる弊社は業界2位の大手です。がっかり)、そんな現状を鑑みるに、本職の方々はさぞや風当たりが強い事でしょう。

    残念です。

  • 私の父方の祖父も、インドネシアで戦死しました。
    父には姉がおりましたが、空襲で命を落とし、祖母は戦後、戦死した祖父の弟と再婚したため、家族の中で父は一人父親の違う子として育てられ、色々と辛い思いもしたそうです。
    家族の中では戦争の話は、誰もしませんでした。祖父がどこで亡くなったのかも知りません。
    戦争のせいで関係が激変し、今も内側に色々な歪を抱えている家族は結構いるんじゃないでしょうか。
    祖父に今の自分が在ることを感謝し、近況をお伝えするために、私は靖国神社にお参りに行きます。
    今日の記事は、格別に心に響きました。

  • 幸い、私の知る限り親戚に特攻隊はいませんでした。
    祖父は敵の飛行機を早期発見するために、耳で飛行機の音を探知していたと言っていました。どんな人も祖国を守るため、知り合いを守るために懸命に闘ったはずです。
    近隣の一部の国が靖国に対して不快だと言っていますが、祖国を守るために散った人たちを思うことに何の不都合があるのでしょうか?
    一番激しく戦ったアメリカとは同盟を組むまでになっているのに・・・

    仕事で靖国の近くを通ることがありますが、今度行った際は感謝をこめてお参りしたいと思います。

  • 電車の中で涙かとまらなくなりました。
    事実をねじ曲げて故意に意図的な伝え方をするより、
    真実をそのまま伝えたほうがちゃんと伝わるものなのですね。
    胸が詰まります。

  • 知らないことの良い面もあるけれど(頭で考えすぎないとか)
    無知とは本当に恐ろしいと思っています。

    私たちは、戦争に遠い世代で私は正直感覚が分からないと
    ずっと思っていました。形は全く違うけれど、震災と原発の後処理
    問題に直面することで、その感覚が少しだけ分かったような
    気がしています。

    真実を知る賢さとか、周りにいくら影響されようとも
    自分で考える・知ることの大事さをもういちど日本人は
    認識していかないといけないのかなあと感じました(私は

  • 今回の記事を読んで、鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れた、
    数年前の夏のことを思い出しました。
    若い隊員の方たちのたくさんの写真や、家族へ残した手紙、辞世の句などを
    読んで涙があふれました。戦争の下、命を落とさざるをえなかった兵士たち、
    大事な人を失った家族たち、その悲惨さ、悲痛さに胸が苦しくなる思いと、
    集団の力がもつ怖さ、人間の善悪様々な思惑や思いが得体のしれない塊となって
    しまう戦争に対する恐ろしさ、それを経て今ある平和への感謝など、
    色んな感情が混ざった涙でした。
    知覧はとてもいい所でした。武家屋敷跡があり、お茶畑があり、森林は
    力強い緑で、空は青くて。蛍になって帰ってきたという話しがありますが、
    本当に、昔ながらの日本のよき夏の風景がそこにはありました。
    戦争は、日本にとってこれからもずっと「過去の教訓」であり
    未来の歴史には決して加わってほしくないと願います。

  • ユーリさん、一番ゲットおめでとさまです!
    特攻隊員の遺書にはさまざまあって、大半は勇ましいことが書かれています。これは死にゆく自分を鼓舞する思いもあったのでしょう。中には今回紹介したような家族、娘や妹などにあてられたものも多く、読んでいるうち目を潤ませます。いずれも共通するのは、自分の死そのものよりも残された者たちや未来の日本のことを案じていること。そのことが日本人だけでなく、アメリカ人やアジア諸国の人々を感激させています。まったくたいした人たちがいたものです日本には。
    ―――――――――――――――
    昔の同僚さん、
    ドイツ軍の例をあげてもらいありがとさまです。体当たり攻撃戦法そのものは古今東西、いろいろあったようですね。古くはギリシャ神話からとか。でも、死ぬことを大前提とした組織的な戦法は類を見ないようです。日本人の死生観が影響しているのかもしれせんね。
    ―――――――――――――――
    ベティさん、
    なかなか読ませるコメント、ありがとさまです。戦争や自然災害で失う命や財産は、つくづく悲しいことです。でもそんな極地にあるからか、人を感動させるドラマもまた発生しやすいのかもしれませんね。『永遠の0』良い小説でした。映画が楽しみですね。これまで満足行く脚本じゃない理由で映画化を拒んでいた著者の百田尚樹さんは、これならとOKし、試写会で涙が止まらなかったそうです。
    ―――――――――――――――
    たいさん、
    たいさんのおじいさんも戦死されたのですね。台湾から出征されたということは、だいぶ戦局が悪くなってからのことでしょう。訓練も十分でなかったかもしれませんね。>「祖父の祈りの中で生かしていただいているような気持ち」< すばらしい!なにかこう、温かいものが伝わってきました。
    ―――――――――――――――
    Alinamin2011さん、
    同共同世代、親近感がわきます。昭和一桁生まれのお父様の一声には、はっとさせられますね。この記事の最後の写真は戦艦ミズーリにつっこむゼロ戦ですが、この特攻機の爆弾は不発だったそうです。よって小さな火災が発生しただけだったため、ミズーリ乗船の兵士たちはパイロットの顔まではっきり見えたと証言しています。また、甲板にころがったゼロ戦パイロットを、艦長の命令で敬意を込めて水葬したそうです。そのようにしながら、敵味方なく互いに兵士の誇りを交換したのかもしれませんね。
    ―――――――――――――――
    あまたさん、
    なかなか考えさせられるエピソードですね。お祖父様はゼロ戦設計者、堀越二郎と一緒に仕事をされてたんでしょうか。すごいですね。彼を主人公とした『風立ちぬ』にも、そんな心無い批判をする人や団体がいて悲しい思いをしましたが、ここにきてだいぶ日本も世論が変わったと思います。ぼくの友人も在日韓国人が多いですが、かえってかつての日本人のいいところについて教えてもらうことが多いです。思想教育こそが事を歪めてますね。
    ―――――――――――――――
    ろみおさん、
    お祖父様はインドネシアで戦死されたのですね。ぼくの祖父も一時期インドネシアのメナドにいましたから、案外知り合いだったかもしれませんね。旧軍の兵士は黙して語らず。これは戦後のGHQやリベラル派の槍玉を恐れただけではなかったと思います。それだけに心中を察するところ、切ない気持ちにさせられます。靖国神社、歩いて10分のところにオフィスがあるので、ぼくもたまに参ります。
    ―――――――――――――――
    おととさん、
    敵機の音を聞き分けられるお祖父様、生死に関わることだけに必死だったのでしょうね。靖国神社のケースは世界でも唯一でしょう。それも国内でまいた種で炎上したケースとして。いまだに参拝する政治家に「公人としてか私人としてか」みたいな質問をマスコミはしますしね。(個人的には、とある8月15日。参道を塞ぐ報道機関の連中とやりあいになったことが)
    ——————————-
    はてなさん、
    ほんとですね。人それぞれ考えはあるでしょうが、故意に誘導せず、ありのままを伝え、それぞれ解釈すればいいことだと思います。日本人はあの時も今の日本人も変わりありません。後知恵で断罪できるような視座はもつべきではありませんね。
    ―――――――――――――――
    わんわんわんわんさん
    東日本大震災が起こった直後、日本は戦後の時のような再生が起こると直感しました。いまのわんわんわんわんさんも同じような気持ちかもしれませんね。情報があふれるいまだからこそ、情報弱者に陥る可能性が高いです。そうならないためにも流されず、「自分の頭で考える」習慣をつけたいものですね。
    ―――――――――――――――
    Luluさん、
    行かれたのですね、知覧特攻平和会館。ぼくも17の時にそこを訪れ、特攻隊員が残した手紙など読みながら、それこそ水道管が破裂したように泣きじゃくりました。「自分と同じ歳じゃないか!」と。あまりに衝撃的で他の記憶が飛んでます。まあ、多感な年頃だったからかもしれませんが。Luluさんのコメントを読んであらためて訪れたくなりました。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    ABOUTこの記事をかいた人

    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。