リトアニアと日露戦争

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リトアニア、ときいてそれがどこにあってどんな国なのか知る日本人はあんがい少ないかもしれない。ましてそこにどんな歴史があり、なぜ親日家が多いか知る人は。
 
100年より少し前の1906年リトアニアで3冊の本が発刊された。タイトルは「ヤポーニア(日本)」。三部作で、それぞれ『日本今昔』『日本人の暮らし』『日本の政治構造』で構成されている。著者はステポナス・カイリースという26歳のエンジニア。リトアニア語で書かれた、リトアニア人のためのリトアニア人による日本論である。
 
1906年といえばちょうど日露戦争(1904-1905)が終わった翌年。リトアニア帝政ロシアに併合されており独立国ではなかった。領土を奪われアイデンティティを奪われ、したがってリトアニア語も禁止されていた。日本との戦争ではリトアニア人兵士もマンシュリア(満州)に送られ、日本軍と戦った。隣国のエストニアラトビアも同じ運命だった。
 
親や息子を戦闘で失ったかもしれないリトアニア人。だが、彼らは日本の勝利を喜んだ。敗けた帝政ロシアは弱体化し、結果、圧政をゆるめざるを得なくなったのだ。リトアニアウクライナなどロシア人以外の支配地域においてはとくにそうだった。自由を認め民族のもつ言語の使用を許した。その流れでこれまで禁止されていたリトアニア語をつかって出版されたのが「ヤポーニア」だったのだ。
 
強大なロシア帝国をやっつけた日本に世界は瞠目した。ことロシアの圧政に苦しんでいた人々は、憧憬を込めて日本を知りたがった。日本の勝利に勇気づけられたのは欧米諸国に支配されたままのアジアやアフリカ、中東やトルコの民だけでなく、リトアニアフィンランドウクライナなどのヨーロッパ人もそうだったのだ。ヤポーニア第一巻『日本今昔』にはこうある。
 
日本人、とくにサムライ階級は勇敢だ。戦いで燃え上がり、自分の祖国や君主のために微笑みながら死ねる人々である。ロシアとの戦争のとき、日本人は敵に対してなにができるかをいくどとなく見せた。夫を失ったリトアニアの多くの女性は、悲しみにくれながらも日本人の勇敢さを長いこと語り伝えるだろう。
 日本人は負傷者や捕虜に対して、教養のあるヨーロッパのキリスト教徒より十倍もていねいに接している。我々の兄弟が日本から戻ってきたら、日本人についてさらに多くを語ってくれるだろう。戦争中の日本人の頑固さ、残虐さについての報道の多くは、悪意を持った人々が作り上げて広めたでたらめな話であることにまず注意を喚起しておかなければならない。

 

戦争直後に出版されただけに日露戦争のことに触れた箇所は多い。また味方ロシアの報道ゆえに敵日本将兵のネガティブキャンペーンについても鵜呑みにしないようにと留意させている。著者のカイリースはロシア語、ポーランド語、ドイツ語、英語が堪能だったことで各国さまざまな報道記事や歴史資料を読み比べることができた。もっとも日露戦争の報道記事は、日本人が想像している以上に世界中に詳報されていた。前代未聞の大国vs.小国との戦い。同時に白人vs.有色人種の戦いでもあった。また次の一文もなかなか面白い。
 
日本政府が軍隊に割り当てた資金は、あちこちの知事らの手に渡ったりしないで、届くべき場所に届いていた。日本国家は、盗んだ金で懐をいっぱいにするためでなく、敵を打ち負かすために戦争に行ったのだ。
 
日本人ならあたりまえの規範も、帝政ロシア政府はそうでなかったということが読みとれる。とすればロシア軍の敵は日本軍だけではなかったのかもしれない。
 
第一巻『日本今昔』ではアマテラスにも触れ、日本が太陽の国であることも、最初の王であるツィンム(神武)天皇は太陽の子であることも記している。現在のムツヒト(明治)天皇皇統譜で122代目にあたり、はるかに続く太陽の子孫であると記していた。実はリトアニアは今でこそ敬虔なクリスチャンが多いが、そのむかしは太陽、雷、月、蛇、森など自然界の神々を崇拝していた。ゆえに他の西洋諸国からは異教徒扱いされ、十字軍に滅ぼされそうにもなったが、「日本民族全体の上に天や太陽と通じていた天皇がいた」という説に、リトアニア人たちは受け入れやすいのかもしれなかった。
 
日本では、どこにでも土地の神がいて、人びとが訪れる価値のあるなにかしら特別の社寺がある。社寺を訪れれば、きれいな森も海も山も見られ、ようするに手のひらいっぱいに自然の美を掬(すく)うことができる。
 
「手のひらいっぱいに自然の美を掬うことができる」・・なんと美しい言葉だろう。第二巻『日本人の暮らし』には、万の神、自然崇拝の日本人に対し、さまざまな異教徒が布教をおこなうさまにも触れている。
 
 
(ヨーロッパの)宣教師たちは四半期半も迷える子羊をつかまえようとしていながら、4千7百万の日本人のうち、20万人足らずしか改宗させていないのだ。(中略)宣教師が怠けていたとはいわない。彼らは福音の種を蒔いた。心の救いのために、あえて日本人に嘘さえついた。例えば、初期の頃のカトリック伝道者は、自分たちは僧侶だといい、仏教僧の衣装を着ることさえした。日本人を怖がらせないようキリストをブッダと呼んだりもした。
 日本人はじっさいのところ、キリスト教も仏教の一つの宗派だと考えていた。しかし、宣教師たちが多くの村人に洗礼を施し、教会を建て、その影響力が強大になったと自負して日本古来の神々をないがしろにし始めると、とたんに日本人は抵抗し、宣教師を追い返した。その後の宣教師たちは、さまざまの贈り物や日本人に有益な活動を用意して、日本人の関心を惹きつけざるを得なくなった。とはいえ、宣教師が訪れる三ヶ月だけはキリスト教徒で、残りの九ヶ月は仏教か神道の信者であるという日本人はざらにいる。
 
カイリースはこのように、16世紀〜18世紀ものあいだ日本を訪れた宣教師たちが残した書物や日記などの資料もとに記述している。その時のようすがいきいきと伝わってきて実におもしろい。日本の教科書がこうだったら授業も退屈しなかったのになあと思う。
 
第三巻『日本の政治構造』には主に日本の憲法について紹介している。当時の憲法は「大日本帝国憲法」。カイリースはこの憲法を絶賛し、一方で参政権や女性の権利が低いなど悪い点も指摘している。後に彼はリトアニア共和国憲法草案を作ることになるが、精読した大日本帝国憲法を大いに参考にしたのはまちがいない。
 
帝政ロシアが革命で滅び、独立を果たしたリトアニア共和国の最初の憲法が発布されたのは1922年のこと。「全国民による投票」「男女平等」「労働者の保護」「義務教育」などがしっかり盛り込まれていた。
 
第二次大戦が始まるとドイツ軍がやってきて、リトアニアは瞬く間にドイツの領土になった。それもつかの間、ドイツが敗れるとこんどはソ連がやってきて再び祖国はロシア人のものとなり、11万人ものリトアニア人がシベリアの強制労働所に送られた。カイリースの妻、オナもシベリアに送られた(後に生還)。カイリース自身はドイツ軍がやってきたときに囚われ、ラトビアの刑務所に収監された。ソ連軍が攻め入りドイツ軍が敗走するどさくさに抜け出し、ベルリンを経て仲間に促されアメリカへ亡命した。ソ連リトアニアなどバルト三国を併合し、ソ連の領民とした。崩壊直前の1991年までそれは続いた。カイリースは祖国の独立をみることなく1964年、ニューヨークで客死した。
 
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▲ シベリアで強制労働をさせたれたリトアニア

 

リトアニアにあるカウナスは、かつて首都だった。日本領事館もそこにあり、1939年、杉原千畝が領事として赴任してきた。数年前テレビでも紹介され、すっかり有名になった「命のビザ」の主人公である。彼が日本のトランジットビザを発行したのはリトアニア人にではなく、翌年1940年にドイツ軍に追われて逃げてきたポーランドユダヤ人難民たちだった。杉原ビザで6000人もの命が助かり美談となる。カウナスには「杉原記念博物館」があり、首都ビリニュスには桜が植えられ、スギウラ通りまである。
 
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▲ 杉原領事が発行した日本へのトランジットビザ。実際にビザ保有者たちが無事日本を通過したということは、満州や日本での入出国において日本外務省や軍などがビザのとおり履行したという証明でもある。

 

戦争は起こってほしくないし、起こす側になりたくもないが、戦うべきときに戦ったからこそ守ってきたものがある。日露戦争なかりせば、カイリースが日本論を記すことなどなかった。今の朝鮮半島はおそらくロシアのもので、リトアニアなどバルト三国も独立していなかったかもしれない。その後の歴史も変わっていたにちがいない。
 
 
こういう運命の岐路に惹かれてやまない。
ぼくが行きたいと思う場所はそのようにして決まる。
 
 
坂の上のヤポーニア

坂の上のヤポーニア

 

 

 

9 件のコメント

  • こんにちは。
    アドレナリンジャンキーって言葉が定着して随分になりますが、まるで従兄弟のようなDRD4-7R(笑) けど、冒険は知的好奇心、探究心なしでは達成できないわけですが、そもそもどうして「そんな所」に行きたがるのか不思議でした。きっかけって、やっぱりあるんですね!今回の記事で垣間見たような気がします(^o^)
    大概は、知的好奇心を満たすために更に読書をして終わるのでしょうけど、そこを行動に移しちゃうところが遺伝子のなせるワザなのでしょうね。
    なおきんさん、危ないところは避けて下さいね(笑)

  • 去年、樺太出身の祖母に、樺太時代の話を数時間かけて聞いた際、当時の豊原(北豊原駅)の家の近所に居たという、それぞれ別の「ポーランド人」2人の話が出てきました。
    私は、満州等に移住した者が多いと聞いていた白系ロシア人のことなのか、と思っていましたが、もしかしたら、この時に日本に来た人達なのかと思ってみたり。
    また別な話ですが、先週、千葉の久留里城を訪れた際、資料館に古い武士団の写真があり、え!?なぜ写真が?と驚いて良く見たら、日露戦争から復員した久留里出身の兵士達が、戦勝祝いに先祖伝来の鎧を身に纏って記念撮影・・・との説明書きが。考えてみれば、彼らは父親世代は確実に、若くは本人達が、武士として生まれ、武士としての教育を受けたわけで。
    日露戦争での、大損害を出しても乱れない規律の良さも、こういった精神的な武士達がまだ多く残っていたからでは、と思ったり。
    それにしても、リトアニア人がこんな本を書いていたとは。少々褒めすぎな感じもしますが。

  • ぱりぱりさん、いちばんゲットおめでとさまです。実は「今年こそイエメンへ!」と思っていたのですが、いまや内戦状態。ますます行きにくくなってしまいました。困ったものです。でも基本的にあまのじゃくなので、みんながあまり行きたがらないところに、代わりに行ってみてくるね、という感覚です。この性格も困ったものですね。鳩山さんも困った人ですが。

  • 楽庵さん、樺太出身のおばあ様のこと、大変興味深いですね。日露戦争に出兵された方々はもと武士階層の方もいらっしゃれば、農民の方も大勢いらっしゃったようです。等しく勇敢に戦われたという点で、こちらも興味深いです。また別れた妻の父親がリトアニア系ドイツ人ということで、親せきにリトアニア人がいて昔話したことがあります。そのときはイギリスに亡命されてたんですが、他のイギリス人と違って日本人をとても尊敬されているような印象を持ちました。ぼくに気を使っているのかな?と思ってましたがあんがい本音だったのかもしれません。

  • 以前、新書ですがバルト3国の歴史について読みました。あの地域の住民構成は長らく、ユンカーのような少数のドイツ人領主(貴族)と多数の地元民となっており、ロシア帝国に編入された際にも、ドイツ人領主たちが政治に深く関わっていたが、第二次大戦でバルト地域のドイツ人は故郷を捨て、見た事もないドイツ本国へ引き揚げた・・・とか。もしかしたら、以前の奥さんの家系は元貴族?と、想像してしまいました。
    樺太の話ですが、戦争前とソ連占領下での話は、https://www.youtube.com/results?search_query=シリーズ「樺太を語る」
     を見ると、又聞きや本ではない、直接の体験談を聞くことが出来ます。充分に歴史の一次資料に出来るような話もあり、祖母の話とも符合する点が多く、様々な人の体験談を聞くうち、あの時、あそこで何があったか、おぼろげながら全体像が見えてきます。
    興味があれば是非。

  • いつも楽しく読ませて頂いてます^^
    日露戦争と聞いて思い浮かぶのが司馬遼太郎の坂の上の雲。本記事に出てきた坂の上のやボーニアと何となく似てる気が…。数年前にNHKでドラマ化もされましたが、何度見ても飽きないものです。
    ところで、最後辺りの杉原千畝について述べてるとこで、途中から杉浦となっております汗

  • 楽庵さん、いろいろ教えてくれてありがとうございます。妻の祖父は第一次大戦はロシア兵としてドイツ軍と、第二次大戦はドイツ兵としてロシア兵と戦ったという数奇な体験をしたそうです。樺太の体験談も興味深いですね。

  • jungin25さん、司馬遼太郎の「坂の上の雲」はぼくもむさぼるように読んだものです。でもノンフィクションではないことに留意する必要がありますね。「杉浦→杉原」のまちがいを指摘してくれてありがとうございました!さっそく修正しました。

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    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。