読む時間もないくせに、本ばかり買っている。
今、同時に読んでいる本は1日あたり5冊。 通勤用、帰宅用、トイレ用、入浴用、寝室用。 さらに宅配される新聞もあるけれど、これはもうほとんど読まないまま捨ててしまっている。 資源の無駄だ。 浪費だ。 もうそろそろ止めようと思いつつ年を越してしまった。
買っては読み、読んで気に入れば本棚にしまい、つまらなければ売るか捨てる。 時間と場所は有限である。 つまらない本はさっさと読むのをあきらめ、未練なく手放すのがいいと思う。
そんな中で、繰り返し繰り返し、読む本がある。
ヴィクトール・フランクル著の『夜と霧』がそれだ。
あまりにも有名な著書なのでわざわざ説明することもないのだけど、心理学者でもある著者は、ユダヤ人であるただそれだけのためにナチスドイツに強制収容所に送られ、家族を虐殺され自らも虐殺される直前に、奇跡的に生還した人物だ。
辛いとき、ぼくはこの本に何度も救われた。
例えばこんな一節に。
苦しむことにも意味があるはずだ。
運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
それからこの一節
わたしたち自身が問いの前に立っていることを
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。
考え込んだり言辞を弄することによってではなく、
正しい答えは出される。
フランクルが言うように、ぼくたちは「人生」に意味を問うべきではないのだろう。 むしろ、自身の「人生」から意味を問われているのだ。 そこをまず謙虚に見据えたい。 やはり生きる意味をいつまでも考えているだけでは幸せにはなれないのだ。 我が身の不遇を唱え、嫉妬や猜疑心に病むことが習慣づくこともある。
「派遣村」などと、よくわからないネーミングで呼称され、そこで仮の宿に住んでいる人たちはかわいそうだと思う。 でも派遣やアルバイトそのものが悪い訳ではない。 「会社に縛られず、自らを自由にしておきたい」と考える人だっているだろうから。 また、企業の限られた人件費を鑑みれば、こうした労働条件であるからこそ、より多くの人たちが働く機会を与えられているとも言える。 すべての従業員が正社員ならば、必要とされる労働人口はもっと少ないものになるはずだから。
△ 派遣村の様子:ゴミの片付けもボランティアの人がやっていたが、それは援助を受けている人たちが率先してやるべきだったとぼくは思う。とにかく是非については賛否両論も多い。
苦しい立場の人たちは、いまのこの状況をしっかり記憶しておいてほしい。 後日、このことがバネになり、ささやかな暮らしでもありがたく幸福感を得られるようになるんじゃないかと思う。苦しいから時だからこそ、人のありがたみがしみるものだ。 感謝の気持ちが自然に湧くような環境は何事にも代え難い大事な時間だ。
苦しさを知るから楽しさにより幸福感を覚え、お金に苦労するからお金のありがたみを知る。 戦争を経験した人々が戦後がむしゃらに働けたのは、一度は死を覚悟したことがあるからだろう。
本当に幸せなのは、与えられることではなく与えることだと、ぼくは苦しい経験から学んだ。
だから、「住む場所をよこせ!」、「 ただで飯を食わせろ!」としか今は言えない人たち。 自分がいくらもらえるか、そのことにしか関心のない人たちはつくづくかわいそうだ。 我が身に起こった不幸をいつも「自分以外の誰かのせい」にすることで自責から逃れられたとしても、さらに不幸を倍増させる負のスパイラルでもある。 このことがかわいそうだ。
そんなことをぼくは、この『夜と霧』を読み返すたびに思う。
人生に意味を問うべきではない。
問われているのは、他ならず自分自身なのだから。
最近のコメント