イラストを描くことと 旅をすることは似ている

ペンタブレットに変えた
 ずいぶんむかしに、ぼくは手首を傷めた。

以来パソコン操作、とくにクリックをするたびに激痛がはしって仕事にならない。そこでクリックしなくてすむようマウスをペンタブレットに替えることにした。さっそく香港の電気街、シャムスイポーで買い求め、せっかくなので試しにイラストも描いてみる。これが思った以上に自然に描けるのにおどろく。筆圧も線のハネもちゃんと描画するのだ。さすがはワコムのペンタブレットと感激した。2005年が明けたばかりのことである。

これを機に「香港イラスト写真日誌」というブログを開設した。イラストも写真も文章もたいしたことないが、合わせれば相乗効果があるかもしれない。この年ブログは黎明期だったが、イラ写は他のブログとはちがうものにしたかった。しばらくして香港から東京に身を移し、タイトルも「東京イラスト写真日誌」に変え、いまに至る。イラストは何千枚描いたか知れない。記事も2000を超えたはずだ。

ぼく自身イラストを勉強したこともなければ、仕事で描いていたこともない。酒場で酔ったいきおいで人の似顔絵を描いたり、言葉が通じない旅先で「絵談」することはあっても。ぼくにとってのイラストは足りない言葉をおぎなういわば「会話代わり」というわけである。

その意味でもぼくの描く絵は人に伝わることが前提だ。だから象のような蝶を描いたり、玉ねぎに見える南瓜は描けない。南瓜を描いてみせ「うん、これは南瓜だね」と言ってもらえること。そもそも絵なんて、自分が見て感じたままを好きなように描けばいい。むしろそのほうがいい。でもイラストの役目はそうじゃない。他人が見て、それがなにかわかるもの。それがぼくの考えるイラストの定義だ。

日常的にイラストを描くようになって、身の回りを観察するようになった。よく「相手の身になって考えろ」というが、さしずめ「相手の目になって考える」ようになった。ほかの人ならどう見えるか? という視点である。

ここであなたに「タオルを描いてみてください」とお願いをする。実際にペンを持って紙に描いてみてほしい。うまくかけただろうか?長細い紙片にみえたりしないだろうか? どうやってあの吸水性のあるコットンの質感と柔らかさを表現するか、あなたはタオルについて少しわからなくなるかもしれない。広げるか、たたむか、人の首にかけてみるか。タオルをとりまく状況について思いを巡らすかもしれない。なにも乾いているばかりがタオルではない。大きさはどう表現する? だったら大きさがわかるよう、手も添えるべきか?

ただの四辺を描けばいいタオルだって、いざ描こうとするといろいろあってめんどくさい。それであなたは以前よりタオルについて認識が後退してしまっただろうか? むしろ逆だ。いつものタオルがそうでなくなる。より強く意識されるようになる。イラストを描くとは、そういう面をもたらす。

たとえばひとが笑っている顔を描くとする。ひとつは「笑いをこらえている笑顔」、もうひとつは「作り笑いの笑顔」。かんたんなことだ。どちらも笑顔で、どちらもフリだ。笑わないフリと笑うフリ。だけどこのふたつをイラストで描くのはあんがい難しい。

こんなふうに・・(下手くそでごめんなさい)

笑いをこらえる、作り笑いをする。同じ笑顔でも微妙に違います

笑いをこらえる、作り笑いをする。同じ笑顔でも微妙に違います

 

何かを描くということは、何かを見るということである。

見ているようで見ていなかったこと。知っているつもりで知らなかったこと。そういうことを再認識する。日常という習慣の連続の中で失っているものは案外多い。ぼくはそれらを非日常という旅で取り戻し、イラストを描くことで思い出す。旅をすることとイラストを描くことは共通点がある。新たな視点が得られることだ。

これまでとくに気に留めなかった人の表情に、いくらか奥行きを感じるようになる。心に触れた気がする。そこに関心が生まれる。人に関心があるところ、好意も生まれやすい。他人にダメ出しばかりする世の中にあって、好意を持つことは大切である。

相手がそれとわかるように描く

それには、自分だけでなく他人の目も必要であることだ。つまり客観的であること。謙虚であること。プロでもないぼくがこんなことはちょっとはばかれるけれど、イラストを描くことで、他者の視点を自分の中に持てるようになった。今となってはもうキーボードを打つことも困難さを覚えるほどになったが、ちゃんと怪我の功名はあったということだ。

あなたがもし人間関係などで疲れたと感じたら、イラストを描いてみることをオススメする。たとえば目の前にあるカップを描き、外したメガネを描いてみる。家族の似顔絵を、好きなタレントの似顔絵を、夕食に食べたチキンの照り焼きを描いてみる。すると不思議なことに、描く前よりも少しだけ、あなたはやさしくなっているはずだ。視点が増えれば視界が広がる。きっと気もちも広がる。

かたくなだったのは自分だったかもしれない。相手の目になり、相手の身になれる。モノの気もちに寄り添える。描くことで出来上がるのは、イラストだけではない。

 

ポイントはひとつ

それが他人から見ても何だかわかるよう描く。

それだけです。

 

 

ペンタブレットに変えた

4 件のコメント

  • 他者の視点を自分の中に持つ。
    う~~ん、なるほど~。
    今度の朝礼当番の話のヒントができた感。
    絵を習いに行ってた時、先生がよく言ってたなぁ、「よ~~く見ましょう」って。
    あれだな。
    タオルを描く、って実際やってみると、かなり難しいですよね。
    かたくなだったのは自分、ハイ、そうです、いつもそうです。優しくなりたい・・。

    • ダリアさん、こんにちは!
      朝礼の挨拶、当番制なのですね。ごくろうさまです。でも「何話そう?」と考えるのは良い頭の体操になりますね。タオルの描画、実際にやってもらって嬉しいです。あの厚みと柔らかさを出すには、たたむとか、巻くとか、が必要ですね。これがひとつのものを多角的に見る良いトレーニングになるんです。くりかえしていると、ものごとの多様性に気づきます。「みんな違って、みんないい」てなことにも。

  • イラストについて、「人に伝わるように」「誰が見てもそれとわかる」ものとして捉える視点は新鮮でした。さすが、なおきんさん、鋭い視点をもたれていますね。目から鱗でした。
    そういう考え方は、イラストだけでなく、仕事をする上においても、必要なことですよね。

    怪我の功名から始まったイラスト描き、ということですが、やはり天性のセンスを感じずにはいられません。
    特に人物画って、仕草や、身体のちょっとした角度やら、手先まで、と事細かに観察して書かなければならず、なかなか上手く描けないものなので、いつも生き生きしたなおきんさんのイラストを見るたびに、感心しきりなのです。

    • まさよさん、こんにちは!
      そんな買いかぶりなコメントをいただくと、慢心してしまいそうです。そうやって木に登って下りれなくなりそう!でもうれしいです。相手の目になってものを見て、相手の言葉で話して、相手の耳になって聞かせてあげる。コミュニケーションって「伝える」方法について語られやすいけど、本来「伝わる」事が大事ですよね。イラストを描くとき、描いているものを見るんじゃなく、イラストに描こうとしているものを見る。ということですね。

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    なおきん

    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。