日本人は馴染みのない中国国共内戦。
中国天下分け目の大戦争だったが、始まったのは1927年。日本と戦争していた間(1937-1945)は休戦して共に日本と戦い、日本が敗戦すると再び戦火を交え1949年まで続いた。結果は共産党軍の勝ち。同年中華人民共和国が建国され、国民党軍は台湾へ逃れて中華民国を維持。国連設立時こそ常任理事国は中華民国だったが、1972年中華人民共和国にすり替わり、中華民国は追放された。
それにしても不幸なのはそこで暮らしていた人びとであった。22年もぶっ続けで戦禍にまみれ、男は兵にとられ、家は焼かれたのだ。女や子どもたちは殺された。そこそこ食べれて平和だったある村は最初は国民党軍やってきて戦場となり、次に日本軍やってきた。日本軍がいなくなるとこんどはソ連軍がやってきて、再び国民党軍が来て、最後はこれを負かした共産党軍が支配した。やっと戦争が終わったと思ったら毛沢東の政策の失敗(大躍進、文化大革命)で、さらに数千万人が殺されたり餓えて死んだ。
国共内戦では兵隊もあっちこっちした。最初は国民党軍兵士として戦い、途中で共産党軍兵人して戦ったものもいる。どのみち兵隊はさらわれたり騙されたりした貧しい庶民である。戦わないと殺される。だから戦う。相手はどっちでもいい。家族と引き離され、何十年も帰れなかったり、そのまま亡くなった人たちが多い。
『台湾海峡1949』には、そんな主人公達がたくさん登場する。あまりに重く壮絶な体験や証言にめまいがするほど。分厚いハードカバーを手にとったが最後、ページをめくる手が止まらない。途中、無理にでもページから視線をはがして顔を上げ、あたりを見渡さなければ戻ってこれなくなりそうになる。
17歳のとき国民党軍に騙されて兵士にされ、両親に知らせる間もなく台湾から中国大陸の戦場に送られた。戦闘中、敵につかまった呉さんはかぶっていた帽子を共産党軍のそれと交換させられ、そのまま共産党軍の兵士として前線に戻され弾除けにされる。内戦がようやく終われば、こんどは翌年から始まった朝鮮戦争の前線に送られる。かろうじて生き残り、結局台湾に戻れたのは1992年。両親はとうに亡くなっていた。
戦場で飲み水もなく、仕方なくおそろしく汚れた赤や緑色をした水溜まりの水を飲み、粥を作っていた張さん。翌朝その水が、溶けた雪が何百体もの死体からにじみ出た血液や体液と混じった水だったことを知る。「だからどうした?」みたいな淡々とした証言に読むこっちがびっくりである。
著書には日本人にもイタイ話が載る。劣悪な環境で船で戦地に送られる中国兵やオーストラリア兵捕虜。彼らを監視し、飛行場建設のため酷使する日本兵。それが台湾人日本兵だったりする。その台湾人日本兵にビンタを教え込む日本人。かなたパプアニューギニア領のラバウル島で監視員として過ごし、終戦を迎えても本国から迎えが来るわけでもなく見捨てられた台湾人日本兵の話もあれば、瀋陽の駅前を歩いているところをソ連兵たちに引き倒され、公然でさんざんもてあそばれ陵辱される日本人女性の話もある。背中から引き剥がされ泣き叫ぶ赤ん坊、一緒にいた3人の子供たちも暴行され、最後は5人並ばされて銃殺されたという目撃証言が載る。
著者は龍 應台という外省人(日本敗戦後、台湾に移り住んだ中国人)。ドイツ人夫との間に生まれた息子フィリップから「家族の歴史」を訊かれたことをきっかけに、父母の漂泊の人生をたどるため父祖の地を訪ね、いまは年老いたかつての台湾の少年たちへ聴きとりして回ったという集大成である。
読み終わり、誰かに話したくなって記事にした。
本の感想を訳者あとがきから引用する。
本書は歴史ノンフィクションと分類されてはいるが、単純なジャンルには収まりきれない豊な作品である。文体だけを見てもそれはエッセイであり、小説であり、ルポタージュであり、対談であり、戯曲であり、評論であり、詩でもある。そして簡単にいえば、歴史と家族の物語だ。本書はめっぽう面白い。
それにしても著者龍 應台の、語りのうまさが際立つ一冊だ。
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