今だからこそパールハーバー(その1)

暗いうちに目を覚まし、
まだ明けきらない空の下、ワイキキビーチに立つ。海からの強い風に髪の毛を洗われ、もう一枚はおってくればよかったなどと思いながら、海岸をぽつぽつと歩く。ひと気のない朝のこの時間が好きだ。

集合場所にいたはずだが、パールハーバー行のバスは知らぬ間にやってきて、ぼくを乗せずに行ってしまっていた。しかたなくタクシーを捕まえ、あとを追う。パールハーバーは軍事施設である。単独で入るのはなにかとややこしい。IDがなければ立ち入れない場所だってあるのだ。タクシーを降りてまもなく、ガイドはぼくを見つけてくれた。

パールハーバー。

平和なある日曜日の朝、轟音とともにいきなり空から爆弾が降ってきた。爆弾が炸裂し、あたりは騒然とする。悲鳴が聞こえ、噴煙が上がる。火柱と一緒に何かが吹っ飛ぶ。それが1941年12月7日にこの場所で起こったことだった。攻撃を仕掛けてきたのは日本。帝国海軍の戦闘機や爆撃機である。慌てて対空機銃で応戦するが、停泊していたアメリカ太平洋艦隊艦船は瞬く間に大爆発を起こし、炎に包まれた。用意されていた対艦砲台は沈黙したまま。飛行機が発進された日本の大艦隊はハワイ沖の彼方であった。迎え撃つはずの戦闘機は地上で破壊され、ようやく飛び上がった機も撃ち落とされていった。勝負は日本軍のワンサイドゲームであった。

真珠湾攻撃のあったこの場所には、76年経ついまも沈んだままの戦艦があり、零戦の放った弾痕が残る飛行場がある。なぜハワイは攻撃を受けたのか?日本軍はどんな兵器をどのように、どのような作戦の下で攻撃をしたのか?そもそも、なぜ日本とアメリカは戦争になったのか?そんな疑問に答えてくれる展示物が記念館に収められている。

かつての米軍格納庫では零戦を展示

この博物館のまわりではその日、300機以上もの日本の戦闘爆撃機が飛来し、爆弾や機銃で攻撃を受けた。博物館はかつての格納庫であるが、入口を入って真っ先に登場するのは零戦21型である。ただ展示されているだけでなく、パイロットや整備士もあの時のまま再現してあった。置かれているのは空母飛龍(ひりゅう)の甲板という凝った設定。しかもパイロットのマネキンは、実際に飛龍から発進し真珠湾上空で被弾した西開地二等飛行曹をモデルとしている。実在したパイロットまで一緒に展示する博物館の姿勢に注目したい。また、展示されている零戦は1980年代に復元後、一度空を飛んでいる。ハリボテではないのだった。

 

▲ 零戦に乗り込む西開地二等飛行曹と見守る整備兵。今にも動き出しそうなくらいリアルである。

 

▲ 零戦のライバル、F4Fグラマンワイルドキャット。開戦後しばらくは零戦に歯が立たず、3機でようやく1機落とせるかどうかであった。零戦の展示と比べ、整備兵がなんだかやる気がなさそうである。

 

▲ 零戦に落とされたB17の残骸。空の要塞と呼ばれた爆撃機はヨーロッパでは活躍できたが、太平洋においては日本の戦闘機の餌食であった。

 

▲ 当時のまま残るコントロールタワーと、かつての飛行場。向こうに見える山々の間から日本の大編隊が飛来してきた。

 

▲ 格納庫に残された零戦の機銃の弾痕が生々しく残っている。小さい穴は戦闘機による7.7mm機銃で、大きく割れているのはアメリカ軍による誤射であるという。

 

飛行場内の建物。こんな低い建物にも正確に機銃の弾痕が残る。それだけ超低空飛行で攻めてきたという証でもある。操縦技量は相当なものであったはずだ。

 

▲ コントロールタワー上空に水上機がとんでいた。ぼくにはそれが、爆弾を積んだ日本の97式艦上攻撃機に見えた。

 

フライングタイガー:アメリカ軍はまだ日本と戦果を開く前、中国に対して空軍(戦闘機、爆撃機、パイロット、整備士、士官等)を提供していた。飛行機とパイロット、両方ともである。写真はフライングタイガーのついたアメリカ陸軍機P40の前にならぶ、中国軍(国民党)兵士とアメリカ軍兵士。アメリカは日本と戦争する前に中国を使って日本軍を攻撃していたことになる。さて、中国軍兵士のヘルメットに注目。これはドイツ製。実はナチスドイツと同じヘルメットを中国軍はかぶっていたのだ。

 

戦艦ミズーリと特攻機

パールハーバー。
ここは歴史の大転換の場所である。真珠湾攻撃をきっかけに、かつてなかったほどの広い戦場を、日本とアメリカ、それぞれが国運を賭けて死闘を繰り広げた。そして日本は敗れた。その調印式がおこなわれたのが、次に訪れた戦艦ミズーリの艦上である。

超弩級戦艦ミズーリ:大きさといい形といい、日本の大和にそっくりである。だからついこの角度で、大和を見るつもりでミズーリを眺めてしまう。

戦艦ミズーリはアメリカ人の誇りである。
1943年から、実に1990年の湾岸戦争までを戦った。全長273mは日本の戦艦大和とほぼ同じ。釣鐘状のシルエット。三連砲塔が艦橋の前に2つ、後ろにひとつ、これも大和と同じ。そのようにぼくは大和の亡骸を重ねてミズーリを眺める。

この巨大戦艦は沖縄戦にも参加した。1944年4月、この頃の日本はもう組織的な海上戦力は残っていなかった。それでも一矢報いようと神風特攻隊が編成され、連日のようにアメリカの大艦隊へ突入していたのである。猛烈な敵戦闘機の迎撃と、飛ぶものはなにもかも撃ち落とす熾烈な対空砲火の中、特攻機は1機、また1機と撃ち落とされていった。そんな弾幕をくぐり抜け、たった1機、ミズーリめがけて低空から飛び込んでくる特攻機があった。

これがその瞬間を捉えた写真である。

この特攻機は、突入時にはすでに爆弾を積んでおらず、衝突時に軽い火災が発生しただけであった。パイロットは石野節男さん(石井さんという説も)、19歳であった。上半身がちぎれた状態で甲板に残り、アメリカ兵は恨みを込めてそれを蹴飛ばしたり踏んづけたりした。それを見たキャラハン艦長はすぐに止めさせ、「その若者は我々と同じだ。祖国を護るために突入したのだ。他の機が墜とされているのに彼の機だけが成功した。爆弾は破裂しなかったが、彼はヒーローだ」と言った逸話がある。

翌朝、ミズーリ甲板上で正式な水葬がなされた。アメリカ兵たちは赤と白の布を使って旭日旗を作り、半分しかないご遺体を包み、礼砲とともに海へと帰したのだ。まだ戦闘の最中だったにもかかわらず、である。

突入の瞬間のパネルは、衝突場所の側に設置され説明されている

特攻機が衝突した場所は、わずかな凹みを残しているだけだった。もし250kgが炸裂していれば、そこに大穴が開いていたことだろう

石野さんの水葬がのようすもパネルで展示されている

メディアが書くように、もし特攻隊がスーサイドアタックであり、狂信的な軍国主義の犠牲と認識されていただけなら、このような記録をわざわざミズーリ艦上に残したりはしないだろう。まして、パイロットが水葬されるようすなど。そこには、日本人パイロットの勇敢さを称える姿勢があり、同じ祖国を護ろうとした共通の誇りがある。

太平洋戦争の開始がここパールハーバーなら、終結はこのミズーリである。1945年9月2日、この艦上で日本の降伏文書が取り交わされた。日本の運命の日であり、世界が変わった歴史的イベント。その始まりと終わりがこの地に並ぶ、ちょっと数奇な場所であるのだ。

係留された戦艦ミズーリまでは両脇を星条旗で覆われていた。
ミズーリはいまもアメリカの誇りである。誇りがあるゆえ、敵であった日本に対しても尊敬の念を惜しまない。そこでは特攻機が称えられ、艦内の一室には神風特別攻撃隊員たちの遺書が展示されている。

第二部に続く >>

1 個のコメント

  • まるで自分がこの博物館に居て、自分の目で見ているかのような気持になりました。
    書き出しが小説のようだからでしょうか。
    いつの間にか、自分が主人公になって博物館にいる。そんな錯覚に陥りました。

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    なおきん

    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。