ぼくがまだ駆け出しの営業マンだったころ
人と会うのがイヤでしかたがなかった。
当時のぼくは感情がすぐに顔に出たし(今もかな?)
たぶんそのことで、周囲に嫌な思いをさせた。
苦手意識というのは、なかなか厄介である。
周囲の人達の、嫌なところばかりが目について
いつも自分ばかり損をしているような気がしてた。
ひとはとかく他人の「いい部分」よりも「悪い部分」に反応しやすくできている。これはマスコミ報道を見ていてもわかる。暗いニュースばかり報道されているのは、そのほうが視聴者の反響がいいからだ。
「物騒な世の中になったわねえ」
物騒だったのはむしろ戦中であり戦後間もなくの頃だったが、まるで今がどの時代よりも物騒に思えるのは、報道がその種のニュースばかり流すからである。悪いのはマスコミばかりじゃない。「ダメなこと」に反応しやすいぼくたち庶民の脳のせいでもある。
ぼくは営業には向かない
そう周囲に漏らしていたところ、
たまりかねた当時の上司から
「生まれつき営業に向いているやつなんかいない」
と怒鳴られたことがある。
まわりは外国人ばかりだったということもあって
心を許せる相手も探せず、内にこもるようになった。
もちろん仕事はきちんとした。つもりだった。
成績もそんなに悪くはなかったと思う。たぶん。
だけど、心は閉ざした。
そして一冊のノートを用意し
苦手な人の似顔絵をかき
その人の嫌なとこを書き出した。
数カ月も経つと、ノートは数冊に増えた。
だけど、少しずつ自分の中に変化が見られた。
嫌なことを書き出していたノートには、ついでに相手のいいとこも書いてしまう。つたないドイツ語が通じて、嬉しかったことなど書いてしまっている。似顔絵の相手はとてもユーモラスで、いくぶん人間味のある人物に見えてきた。
ある日、キライはずだったお客のデスクに飾ってあった彼の子供の写真を見て「とてもかわいいですね」と言う自分に驚く。その時、お客の顔がみるみるうちにほころんできたことも、驚きだった。
ぼくの思い違い、というのもあったのだろう。
苦手な人にはとくに嫌なところが目につくものだけど、もしかしたらそれは苦手だと思っている理由を、後から付け足しているだけなのかもしれなかった。
嫌なところしかない人間などいない。
そう自然に思えるようになってから、わざわざ「間違い探し」してもしょうがないと思うようになった。むしろ意識していいとこばかり見るほうが、気がずっとラクであることも。
人との間に鏡があることも、そんな経験から学んだことだ。会うのが楽しみになると、相手もきっとぼくと会うことを楽しみにしているに違いない、と思えるようになった。ぼくが笑えば、相手も笑った。ぼくはこの人のことが大好きだ、と思いながら話せばおのずと笑顔になるのだろう。つられて相手も笑顔になる。そうでないひとも、もちろんいる。だが少数派だ。ぼくから目をそらしていた人も、やがて目を合わしてくれるようになった。してあげられることがあれば、何でもしてあげたいと思った。好意は待つんじゃなく、自分が先にするものだ。
気がつけば、仕事が好きになっていた。
この先、どんな仕事でも好きになれるような気がした。
そのような経験を20代で得られたのは幸運だった。
イヤなことは溜めずに、書き出すこと。
酔って誰かに吐き出すより、効果がある。
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