ちかごろ電車の中の風景が一変した。
乗客が手にしているのは短冊のようなケータイより、画面のデカいスマホが多い。スマホは両手で持つ必要からか、アタッシュケース型からトートバッグ型へトレンドシフトしている気がする。見るつもりがなくても見えるスマホ画面。左右の吹き出しが交互にあらわれ、下へと流れる。LINEはいまや、頭のてっぺんがさびしくなったおじさんもふつうにやっている。
1995年春、ロンドン。
かのWindows95が発売される直前、ぼくはそこで日本駐在員を集め「インターネットとは?」「電子メールの使い方」などというセミナーを開いた。いまもそうだが、当時もロンドンには日本人が3万人以上暮らしていた。一流企業のエリートサラリーマンですら本社支社間のやりとりはほとんどは専用線による通話かテレックスがふつう。電子メールはVANと呼ばれる電話通信網を使い、ごく一部がつかっていただけ。それにとても高かった。「いらないいらない、テレックスでじゅうぶん!」というある大手商社マンは「電子メールは遊び、本命にはならない」とまるで愛人かなにかのようないいぶりであった。
セミナーではエモティコンについてもふれた。
エモーション(感情)にアイコン(図像)をかけあわせた造語、エモティコン。いまもそうよぶ人はほとんどいない。「顔文字」といわれてようやくそれがなんだかわかる。
文字だけでは味気なく感情が伝わりにくいと、エモティコンをメール文に加える人は世界中にいる。そのなかでも日本はつねにその最先端をゆく。アルファベットがメインの欧米諸国はシングルバイト(英数半角)どまりなのに対し、日本など東アジア諸国はこれに加えて2バイト(全角)文字もある。表現できる素材が実に豊富。そのような環境もあり、同じ「笑い」ひとつとっても、日本のエモティコンは欧米の数倍〜十数倍もある。加えて「あうんの呼吸」が国民性。言語だけに頼らず、空気を伝えあうコミュニケーションとの相性もいい。
「日本人と話していてラクなのは日本語が通じるだけじゃない。そう思ったことはないでしょうか? 」 セミナーではコミュニケーションそのものについてもテーマを広げた。
共通認識があり、常識を共有しあえる。言葉の数は多くなくても、日本人のあいだには言わず知れた共通基板がある。周りが外国人ばかりという陸の孤島では違いがいっそうきわだつ。あらためて日本語はハイコンテキストな言語なのだなあと思う。コトバの定義をいちいちしない。個々の意味などはコンテキスト(文脈)の中でそれぞれが察し、ものにし、醸成していく。だからアイコン(記号)に置き換えやすいのかもしれない。この国でアニメが高度に発展していくのもわかる気がする。
「仕事メールでどこまで顔文字が許せるか?」
こんな特集が雑誌でされるのも日本ならでは。若い女性に「オヤジが使うとキモイ」というアンケート調査も載る。顔文字はほとんどつかわないぼくも、いっぽうで手書き文字に相手を想う経験を持つ人からすれば、誰が打っても同じ文字のメールに味気なさを感じる。体温が感じられないと。
ポケベル世代もいまや30代。
本来「おりかえし電話を」というこのデバイスは、日本においては記号交信ツールとして独自に進化していき、PHSを経てケータイメールへと継承された。20世紀も終わるころ、小さなケータイに文字を打ち込む姿をみて日本ならではの光景だなあと一時帰国するたびに思った。なるほど日本は10年先をいっている。はたして10年後、iPhoneの登場で情況は一変したが。
エモティコン先進国がゆえのLINEのスタンプ。
どこかでみたような画面だし、それ自体あまり新鮮味はない。IDを端末の電話番号にひもづけ、スマホならどこの端末でもユニヴァーサルに使える。それならスカイプと同じ。違いはやはりスタンプだろう。ヘタウマで意外とデカいスタンプが特徴だ。おかげで少ない文字数で会話が進む。おじさんたちにはあんがいそこがウケたのかもしれない。
暮らしの余白にある細やかなニュアンスを伝えあうコミュニケーション。そんな機微を楽しむ土壌がこの国にはある。LINEのスタンプは、それを表現する手段にひどく合うのだろう。日本発というのもうなずける。ツイッターやフェイスブックにいまひとつ乗れなかったおじさんにも惹きつけるようすで、LINEしたさにスマホに変えた先輩たちが何人もいる。饒舌な人よりも、むしろ「いうことがいつもひとこと少ない」ハイコンテクストなおじさんにぴったりのツールである。
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