自国民の4分の1を虐殺してしまったクメール・ルージュ(カンボジア)

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プノンペンはいま、発展のまっただ中。
建設中の高層ビルは中心から郊外へと範囲を広げ、都市と郊外を結ぶ立体道路が造られる。ボーリングの音、高いクレーン、人や物を満載して渋滞する車。そのなかをチャーターしたトゥクトゥクはけたたましくエンジン音を上げて走る。車と道路わきのわずかな隙間をぬいながら。風にあおられた髪の毛が額を打ち、吹き出した汗がシャツを濡らす。車のばい煙や砂埃がマスクを抜けてのどを刺す。

向かっているのはキリングフィールド。同じタイトル名の映画を観たのは30年も昔の1984年のこと。以来、カンボジアで起こっていたあの歴史が脳裏にこびりついて剥がれない。カンボジアポルポト政権が自国民の大虐殺を始めたは1975年。日本では広島カープがリーグ初優勝した年である。虐殺のことなど知る由もない。 ぼくはまだ子供だったし、カンボジアにいた外国人ジャーナリストは次々と殺されていた。なぜか国際社会の干渉も受けることなく、実に200万人もの人々が殺された。中国共産党に似せて組織されたクメールルージュの手によって。200万人とは当時のカンボジア人口の、実に4分の1にあたる。

ポルポトが政権を取ったとき、新しいカンボジアを作りなおすのだと宣言した。それ以前にあったものは全部捨てると。その中には人々の記憶も含まれた。それは人命ごと記憶を消すという意味だった。資本家、政治家、教師、学者、ジャーナリスト、芸術家、宗教家ら。まさにカンボジアの頭脳であった。作りなおすと言いながらその実、将来自分の敵になりそうな人間を粛清したかっただけであった。ともかくそれらの殺人リストを作成し、実行した。プノンペンなど都市に住む人々を労働キャンプに強制的に移住させ、わずかな粥だけで強制労働をさせた。抵抗するものは瞬殺した。新しいものは正しく古いものはすべて間違いとされた。間違いは正され、あるいは処分されるべきだと。子供たちは正しく、古い記憶を持つ大人たちは再教育されるか殺された。中国の文化大革命もそうだったが、それが「革命」の正体である。人々は虫けらのように殺されるか、飢えや病気で死んでいった。あるいは虫けら以下だったかもしれない。死体は何千、何万体にまとめて埋められるか、そのへんに放置された。土地の養分になれというわけだ。

 

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▲ 犠牲者の死体が掘り起こされた跡地。ここに数百、あちらに数百と、相当数の遺骨が着ていた衣料ごと掘り起こされる。

 

人間の尊厳はなく、もちろん墓標もない。これらは後にキリングフィールドと名付けられ、これまでにカンボジア全土に300か所見つかっている。ぼくが訪れたのはそのひとつだった。

 

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▲ 慰霊塔の前でここでなにがあったのかを熱心に聞く生徒たち。慰霊塔の中は犠牲者の骸骨が整然と並べられている。

 

プノンペンの郊外。青々とした木々や草原。水田が広がり、蝶や羽虫が舞う。外国からの観光客。先生に引率された学校の生徒たち。こんなにも人がいるのに、あまり声が聞こえてこない。聞こえるのは鳥のさえずりと虫の声。時おり遠くからバイクのエンジン音。風に揺れて葉がこすれあうかさかさという音。あたりを歩く誰もが音声ガイド機を首からぶら下げ、ヘッドフォンを耳にあてている。声がしないのはこのためでもある。ぼくもヘッドフォンを耳にあて、まもなくガイドの声に言葉を失った。

 

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▲ 音声ガイド機から流れる案内を聴きながら一帯をゆっくりと回る観光客たち

 

ガイドによれば、虐殺されたのは300万人とのことだった。ある日いつものように家で寝ていると、とつぜん何者かが押し入ってきて銃を突きつけ手足を縛る。目隠しもされる。トラックに載せられどこかへ運ばれる。ようやく目隠しを外されてみると、今ぼくが立っているこの場所だったというわけだ。口を開いたものはその場で突き殺された。

 

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▲ 花にとまる蝶。どういうわけかぼくはここにいるあいだ、花や蝶、付近の水田など、虐殺とはあまり関係のない写真ばかり撮っていた。

 

クメールルージュは銃弾を節約するため、殺す時は刃物を使った。それも鎌や鍬など農工具が使われた。ない場合はヤシの葉の切り口が代用された。いずれも、そもそも肉や骨を切るようには作られはいない。果物ナイフでステーキ肉を切るように、ごりごりと押しつけて首を切り落とすのだ。どれほどの痛みがあり、苦しむことになるか、想像もできない。いや、想像することを拒んでいる。

 

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▲ 椰子の葉の根元は非常に硬い。またその断面はとても鋭利である。人々はこの切り口で喉笛をかき切られた。

 

いましがたぼくの首筋を撫でた風は、ここで絶命していった罪なき人たちの怨念だったのではないか。この世のものとは思えない断末魔の絶叫。それを大木の枝にぶら下げられた大音量の巨大スピーカーから流される革命歌が、打ち消していった。大木は「マジックツリー」と呼ばれ、いまもある。

 

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▲ 「マジックツリー」大音量のスピーカーとその発電機の音が、恐怖と無念の人々の叫びを打ち消していた。

 

いまも大雨が降るたび、地中から犠牲者が着ていた衣服がのぞくという。小石かと拾えば人の歯だったという。

 

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▲ 大雨が降り続くと地面はぬかるみ、また埋められていた衣服が顔をのぞかす。

 

人はここまで残酷になれるのか。
ある木の肌には子供のものと思われる歯がいくつも突き刺さり、根元には割れた子供の頭蓋骨がいくつも埋められていた。生き残った人々の証言でわかったのは、クメール・ルージュは子供たちの足をつかんでこの木に頭を叩きつけて殺していたということだった。母親から引き剥がし、彼女の目の前でおこなったとも。とても人間の考えることではないが、命令ひとつでそれを行えるのもまた人間である。

 

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▲ 子どもが叩きつけられた菩提樹。哀悼の意を示す色とりどりの輪が祀られていた。

 

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▲ 首のない胴体ばかりが埋められていたというエリア。写真には撮ったもののぼくは最後までここは正視できなかった。

 

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▲ この辺りを歩くときにはじゅうぶん気をつける必要がある。いまでも埋まっていた人の骨や歯が地表にあらわれるという。

 

クメール・ルージュとは「カンボジア共産党」にあたるが、中国の支援や影響を強くうけた政党である。だからいくぶん文化大革命と似た部分があり、人々の虐殺方法までも似ていた。それにしても自国民が自国民を容赦なく虐殺する。それを正当化してしまうところが恐ろしい。結局クメール・ルージュ率いるポルポト政権を倒したのは、となりのベトナム軍であった。中国はポルポトを支持し、ソ連はベトナムを後押しした。カンボジアが開放されてからベトナムは中国の恨みを買い、中越戦争(中国とベトナムの戦争)が勃発している。ベトナム軍は強かった。アメリカ軍を敗退させ、クメール・ルージュを殲滅し、こんどはベトナムに攻めてきた中国軍を撃退している。

いまのカンボジアはベトナムに恩があるいっぽう、内心は複雑である。政府が自国民を虐殺したのだ。文化を破壊し宗教を弾圧し、原始共産主義国などという荒唐無稽な国家をつくろうとし、大失敗した。だからこれらの負の歴史を子々孫々に伝えるべきかどうか、迷っているようにも見える。だからこのキリング・フィールドは歴史の闇に葬られる可能性もあった。だけどいま、遺骨は掘り返され(その扱いはいささか常軌を越しているけど)、歴史の証人として世界に開示してみせた。それはもちろん正しいことだと思う。正しいのだが、なにかやりきれない思いが澱のように残る。

 

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▲ 遺骨をまとめてガラスケースの中に入れて展示するのは、他国にも見られるがぼくはどうも違和感がある。骸骨の展示についてもだ。骨の裾が広がっているのは死体がまだ若かった証拠だという。

 

そんなやりきれない思いを胸に再びトゥクトゥクに乗り込み、トゥール・スレン刑務所へ向かった。次回はそこで見て考えたことを書く。

3 件のコメント

  • 私も行きました。トゥール・スレン刑務所は、足が動かなかったです。怖くて苦しくてつらかったです。感受性が強すぎる人は、たぶんカンボジアに行ったらしばらく心が痛いんだろうと思います。

  • nahoさん、一番ゲットおめでとさまです。コメントバックが遅れてごめんなさい。感受性が強いと感情移入しちゃっているだけで辛くなりますね。ぼくの場合は、耳鳴りとたくさんの手に触られている感触で、相当まいりました。

  • こんにちわ。
    なおきんさんが書いた文章を読むだけでも頭の中でリアルに映像が浮かび上がり
    怖さを通り越して吐き気のようなものがおこってきました。
    沖縄のひめゆりの塔へ行った時、防空壕の前から動けませんでした。目が離せませんでした。
    きっとこのキリングフィールドに行ったら、私は中には入れないのではと思ってしまいそうです。日本にはここまでの惨劇は無かったのか、今一度歴史を振り返ってみたくなります。

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    なおきんプロフィール:最初の職場はドイツ。社会人歴の半分を国外で過ごし、日本でサラリーマンを経験。今はフリーの立場でさまざまなビジネスにトライ中。ドイツの永久ビザを持ち、合間を見てはひとり旅にふらっとでるスナフキン的性格を持つ。1995年に初めてホームページを立ち上げ、ブログ歴は10年。時間と場所にとらわれないライフスタイルを めざす。