香港で暮らし始めた2000年10月のこと。
迎えてくれた共同経営者である相棒から「しっかり儲けたらそのお金で中国の奥地に小学校を建てるのもいいですね」などといわれ、けっこうその気になったことがある。ぼくのようなちっぽけな存在でも、その国の未来を担う子どもたちに貢献できるという話に酔ったのだと思う。
それより少し前の1998年11月、ミャンマーとの国境に近い龍陵(りゅうりょう)市に、3階建の白塔小学校が完成した。建てたのは元日本兵たち。年金をはたいて700万円を集め、寄贈したのだった。完成式が盛大に開かれ、校庭正面の国旗掲揚台には「中日人民世代友好」と書かれた。そばには「寄付700万日本円で建てられました」と添えられもした。小学生のブラスバンドの演奏の歓迎を受け、立ち会った元日本兵たちは日中友好に涙した。
なぜ元日本兵たちはこの地に小学校を建てたのか?
そこが古戦場で、かつて共に戦い、大勢の戦友たちが命を落としていった場所だったからである。
1944年6月、終戦まで1年を残すころ、この地で日本軍と中国・アメリカ軍の混成部隊との間で大規模な戦闘(拉孟・騰越の戦い)があった。同地を占領していた日本守備隊3,800人に対し、アメリカ軍に率いられ最新で高性能な兵器で武装された中国軍68,000人が攻勢をかけたのだ。彼我の兵力差20倍、武器の質と量では50倍の差があった。太平洋ではサイパン、グアムが堕ち、インドではインパール作戦が失敗するなど負け戦が続いていた日本軍も、中国大陸ではまだ優勢だった。日本軍守備隊は20倍もの敵と互角に戦い、なんと120日間持ちこたえた。だが弾薬・食料は底をつき、最後はほぼ全滅してしまう。それでも中国兵とアメリカ将校に27,000人もの損害を与えていた。いまその場所には中国の戦勝記念塔が立つが、勝利かどうかは微妙である。
戦後、この戦闘で奇跡的に生き残った戦友と遺族たちは、1990年に入ってから遺骨の収集と慰霊を北京政府に願いでた。北京は拒絶。だが龍陵市長は理解を示し、小学校を建てるなどの寄付してくれるのなら、自分が北京政府に了解を取りつけて見せますと約束した。それで小学校設立ということになった。
しばらくして龍陵市長から届いたのは「ダメでした」の返事。おまけに「さらに寄付を積んでもらえれば」とおねだりされる始末。だが年金まではたいた老兵たちに資金はなし。肩を落とし、諦めるしかなかった。それでも、中国の子どもたちが喜んでくれたのだからと納得し、残した遺骨に心のなかで手を合わせるのだった。
その後、小学校がどうなったか?
開校式が終わると小学生は追い出され、国旗掲揚台の中日友好と寄付金700万円の文字は消され、建物はまるごと一般企業に払い下げられたのだった。一人の卒業生も出せなかった小学校。このことは最近になって知ったのだけれど、つくづく老兵たちのやるせなさが目に見えるようである。
相棒にいわれ、その気になっていた小学校設立のことを、雇ったばかりの香港人スタッフに話したことがあった。そのときのスタッフのひとことが忘れられない。
「中国に学校?ナンセンス!そんなもの役人のポケットマネーになるだけですよ」
そのことを
老兵たちにも教えてあげたかった。
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