まだ1980年代の半ば、ぼくはヨーロッパ28カ国をバックパッカーとして旅をした。ドイツ、フランスを中心に西欧、北欧へ数回、それから半年かけて東ヨーロッパから旧ソ連の共和国を回った。当時、世界は東西冷戦時代であり、ソビエト連邦は健在。ドイツは東西に分断されており、東ドイツをはじめとし、東ヨーロッパ全域は社会主義国家であった。
チェルノブイリ原発事故が起きた1986年4月26日、ちょうどぼくはベラルーシのミンスクからポーランドへ抜けようとしていた。もちろん原発事故が起こっていたなんて知る由もない。放射性物質を含む雨に打たれ、土地のものを食べていたが、地元の人だってそれが汚染されているものとは知らず口にしていた。アウシュビッツへ向かおうと、ぼくはワルシャワ中央駅から夜行でクラコフ駅に到着。原発事故から数日が過ぎていた。折しも雨がしんしんと降っていたことを覚えている。
あれからちょうど31年が経った4月26日、ぼくはモスクワを経由して夜にワルシャワ・ショパン空港に到着した。旅のスタイルは、当時を再現すべくコールマンの50リットルバックパックを担ぎ、フード付きのブルゾンとトレッキングシューズという格好。以前と違うのは、カメラはコンパクトフィルムカメラからデジタル一眼レフとなり、ノートパソコンとiPad、iPhoneが手荷物に追加された。それから31年ぶん、齢をとった。
31年前と同じ、クラコフは雨だった。
出国前に患った扁桃炎が悪化し、38度を超える発熱、コールマンのバックパックはモスクワで積み残されてしまい、薬も着替えも持たない状態で到着した。クラコフ駅は驚くほど近代化され、巨大なショッピングセンターが併設されていた。31年前は、みすぼらしい簡易食堂がひとつあるだけだったのだ。ほんとうに。朝5時台のオシフィエンチウム(ポーランド語、アウシュビッツの意味)行きの列車に乗り、駅からはタクシーでアウシュビッツ強制収用所へと向かった。そこが収容所だからか発熱によるものか、あるいは強くなってきた雨のせいか、身体は重く、歩くのがやっとである。
それでもチケット売り場へ並び、大掛かりな荷物検査を受け、施設内に入る。いずれも、かつてはなかったものだ。門が開いていれば勝手に入れ、ガイドもいなかった。それだけ観光客が増え、テロの心配も増えたということだろう。雨は一段と強くなり、フードをかぶっていても雨水が染み込んできた。まるで雨宿りのように収容所のひとつに入る。16号館。アウシュビッツの強制収用所は第一と第二に分かれる。第二はあとからビルケナウに作られた巨大なものだ。第三もあったが、ここは化学工場が併設されていたので戦争末期に連合軍に爆撃され、今はない。
アウシュビッツを周っているうち、ようやく雨がやみ、そこから無料バスでビルケナウ(アウシュビッツ第二収容所)へ向かう。ビルケナウは雨をしのげる場所がないため、土砂降りのままでは見学が難しかった。とはいえ、収容されていた方々を思うと、とても雨だの発熱など甘えたことは言えないのだけれど。
第二収容所と呼ばれるビルケナウは、より収容力を高めるため敷地を広く、かつ建物はより劣悪なものとなった。バラックは最盛期で300棟もあった(現在残るのは67棟)。冷暖房の設備はなく、夏は37度、冬はマイナス20度にもなる厳しい気候は、容赦無く収容者の残り少ない体力を奪っていった。
アウシュビッツ強制収用所はユダヤ人のほか、政治犯、ソ連兵捕虜、ジプシーらが収容され、劣等種族と決めつけられた、精神障害者、身体障害者、同性愛者、聖職者なども収容された。ただ絶滅させるだけでなく、無償の労働力として工場労働者や炭鉱夫にされた。使えれば活かし、使えなくなれば殺された。労働に適さない子供達や病人は最初から絶滅させられた。
ひどい耳鳴りは悪寒によるものか、見えざる手によるものかはわからない。小さく降り始めた雨の中、広大な敷地の端から端まで歩く。目の前をはしゃぎながら写真を撮り歩く中国人観光客、彼らをやり過ごし、奥のモニュメントへと向かう。横に建つバラックは1943年以降、湿地の上にもかかわらずろくな基礎工事も施されなかった。粗末な木のベッドに5人が折り重ねられるよう寝かされたバラックである。ベッドと呼ぶのもはばかれるコンクリートの板に藁をしきつめただけのシロモノだった。
ここビルケナウは絶滅収容所としても活用され、複数のクレマトリウムでは実に32分あたり6000人もの人間が殺された。死体はすぐさま焼却され、骨は近くのピスチュラ河にまとめて捨てられた。31年前、まさにぼくはここで大勢の白い影に遭遇したのだった。今回、その気配は感じられなかった。おそらく供養が行き、霊が鎮まったのかもしれない。それとも単にぼくが齢をとっただけなのか。
ナチスドイツは、第一次大戦で敗れた祖国をユダヤ人の陰謀と決めつけ、人々にそう信じさせた。加えて戦後、生活が苦しいのはユダヤ人に騙されていたからと信じ込まされた。だから報復の意味を込めて、ドイツ人たちはユダヤ人排斥に協力していった。中世の魔女狩りを、さらに罪深い民族浄化がドイツ国内のみならず、占領地でも行われた。この事実がぼくには、やはりうまく飲み込めない。かつて日本でもユダヤ人陰謀論が流行ったことがあり「ホロコーストはなかった」などという説も出た。アンネの日記は創作であるとも言われた。日本では文芸春秋社が刊行していた雑誌『マルコポーロ』がこれを特集したことでユダヤ人団体に咎められ、廃刊という事件となった。
ホロコーストを否定することをドイツなどヨーロッパでは法律で禁止している。言論の自由は、ホロコーストに限っては保障されないのだ。ぼくは陰謀説に与しないが、ある歴史的事件が真実だとして、わざわざ「それを反論すること」を法律で禁じるだろうか? あえて言えば、ここがひっかかる。密封性が肝要なガス室のすぐ隣に焼却炉があるというのも、思えば不自然ではある。
身体の調子は今ひとつであったが、寒さで消耗していることもあり、ひどくカロリーを欲していた。タクシーを拾い、少し早めの昼食をオシフィエンチウム駅そばのカフェテリアでとる。ソーセージと酢キャベツのスープ、マッシュポテトとチキンカツレツ。鼻は効かなかったが、驚くほど美味しかった。死がただよう負の遺産をみてきたわりには、身体はたくましく反応するのだ。
再び2時間かけてクラコフへ戻る。
低く分厚い雲からは、まだ雨が降り注ぎ、夕方になる頃には再び土砂降りとなった。このまま夜行でチェコの国境を超え、プラハへと向かう。名残を惜しむようにクラコフの街を徘徊する。夕食はカジミエシュ地区(ユダヤ人街)のレストランでユダヤ料理を食べる。たっぷりの牛肉とヒヨコ豆の煮込み。別のテーブルでは3世代揃った家族がお祝いの食事をとっているところだった。内装も客層も素晴らしく、映画のいちシーンを見る思いがした。店を出るころには、熱はほとんど下がり、意識がはっきりしていた。そのことで、いままで数日間ぼんやりしていたことに気づくほどだった。
アウシュビッツとビルケナウ。
31年ぶりに訪れた。前回は22で、今回は53。その間、ポーランドは自由主義の民主主義国家となり、ソ連も東ドイツも消滅した。東西冷戦は終結したのだ。次に来るとしたらぼくは80を超えているかもしれない。そのころEUはまだあるのだろうか? シェンゲン条約は有効だろうか? そもそもぼくはまだ生きているのだろうか? 最初に訪れた時も雨が降っていたが、今回の雨は放射性物質を含んでいなかったと思う。それで世界がより平和になったかと言われれば、そうも思えない。民族浄化は、あれ以来、たびたび起こっている。
最近のコメント