ちびきちという名の犬。
こいつと暮らすようになって1年が過ぎた。
今でもときどき、自分の部屋に犬がいることにちょっと驚くことがある。 それは夢のようであり、しかし現実感に支配されるものだ。
ちびきちは、いつもぼくのそばにいようとする。
パソコンに向かっているときは膝の上に、食事をしているときはテーブルの下に、ソファで本を読んでいるときはひざにアゴをのせて眠り、ベッドで眠るときは首にアゴをのせて眠る。 バスタブに身を沈めているときは風呂蓋の上で毛繕いをし、シャワーを浴びているときは脱衣場のタオルマットの上で丸くなってぼくを待つ。
なぜ人は犬を飼うのだろうか? とあらためて思う。
人それぞれ理由があるのだろう。
あるいは「自分がありがたい存在になれる」というのもそうかもしれない。
人はこの世に生まれてから、「ありがたい存在」にどれだけ出会うのだろう? また、自分はどれだけの人々から「ありがたい存在」になれるのだろうか?
自分が誰かのありがたい存在になれる。
会社や社会でそのことを実感できないのは、ある種の不幸だ。 家庭で実感できないのは、不幸そのものだ。
人はやはりそれほど強くない。
だから関係性の中で生きようとするのだろう。
家族に認められたい、組織に認められたい、社会に認められたい、だれもがそんな承認欲求に飢えている。
人は強がり、人は自分を飾る。
それは認められたいからではないか? 存在をありがたがられたいからではないか?
そんなことを思う。
けれども、
強がった自分を認められても、飾った自分を認められても、結局のところ空虚なのだ。 誰もがそのことを知っている。
ありのままを認められ、ありがたがられる存在。
そのことをして、初めて自己肯定できる。
そういうものだ。
ちびきちのあどけない顔を見ていると、ときどき涙が出そうになる。
こいつは過去を振り返ることもないし、未来を憂慮することもない。 いっしょうけんめい、ひたむきに今を生きているだけだ。
そして、飾らないありのままのぼくを、ひたすらまっすぐにありがたがってくれている。
報われないことのほうが多い世の中にあって、それに応えられる幸福感を、この小さな犬を通じながらひしひしと感じることができる。
ポップコーンのような匂いのする耳の付け根を指で軽く掻きながら、あとどのくらいこいつといられるのだろうか? と考える。
それが、幸福なのにどこか切ないのだ。
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